【小説】「死を忘れるな」

イギリスの作家ミュリエル・スパークの『死を忘れるな』。

死を忘れるな

死を忘れるな

登場人物の平均年齢が70歳代半ば以上という高齢者小説。それぞれのところへ「死ぬことを忘れるな」という謎の電話がかかってくるが、対応はさまざま。慌てふためく者、警察に訴えて犯人を見つけようとする者、そして穏やかにそれを受け入れる者。生きることは常に死ぬことと背中合わせになっている訳だが、人生の真っ只中にいると、そういうことは忘れがちである。だから、「メメント・モリ」。
以前に、オーストリアを旅行したとき、メルク修道院に寄ったことがあった。メルク修道院は11世紀に作られたベネディクト会派の修道院で、世界的に有名な修道場でもある。ドナウ川見下ろす高台にあり、そこからの見下ろす景色は美しいが、特に印象に残ったのは立派な図書室と、礼拝堂内のお墓の下に置かれた寝そべっている骸骨の彫刻。等身大に近く、とてもリアルに作られていたのでよく覚えているのだが、これも「メメント・モリ」。故人の優雅な人生は華やかであったことをお墓の上部が表し、ただ、そういう華やかな生活も常に死と密に結びついていることを遺された者たちは忘れることがあってはいけないというメッセージ。「自分もいつか必ず死ぬことを忘れるな。」作家のウンベルト・エーコも賞賛したという図書室とともに、静かな礼拝堂内で目にしたカトリックらしいお墓のことはよく覚えている。
カトリック作家ということを考えれば「メメント・モリ」のテーマはわかりやすいが、シリアスなテーマが独特な乾いたユーモアで語られるので悲壮感はない。スパークはやっぱり面白い。
それにしても、白水社の「新しい世界の文学」シリーズの北園克衛のクールな感じの装丁が素晴らしい。昔はこういう現代美術の作品のような本があったんですよね。飾りたくなるほど。ここにカバーを載せられないのが残念。

【小説】理系女子のはしり?

恩師を囲んで友人たちとやっている読書会では、ジェージ・オーウェルに続けてH. G. ウェルズを読んでいる。『タイム・マシン』『モロー博士の島』とSFものが続いたので、気分を変えようと社会小説の『アナ・ヴェロニカ』を読むことに。

イギリスでは、19世紀の半ばから労働者の社会的権利意識が高まることで労働運動の気運が高まってきますが、それと呼応するように、19世紀後半から20世紀初めにかけて、女性の社会的権利に対する意識も高まってきます。そして、それが女性の参政権獲得という具体的な目標となり、投票権獲得を目指した運動が激しくなっていきました。女性参詣運動は、合法的手段のみを使用して権利を獲得すべきだと考えた「サフラジスト」と呼ばれた人びとと、必要あれば過激な行動も辞さない「サフラジェット」と呼ばれる人びととに分かれながら続いていくことになる。政治的運動に関わった特に後者の女性たちは軽蔑や冷笑を込められた「新しい女」と呼ばれた。
ウェルズの描く主人公の女学生もそのひとり。早くから、ヴィクトリア朝時代の保守的で建前主義的な風潮を抑圧的と感じていた彼女は、女性でありながら科学を学ぶことを選び、女性に対する社会的抑圧の象徴である父親や叔母に抵抗する。リベラルな友人たちのパーティに泊まりで参加するかどうかが目下の大問題。結局、パーティに参加できなかった彼女は、年上の既婚者の男性の助けを得て家を離れロンドンへ出て行く。
この小説は、キャラクター造型が類型的で、物語もシンプル、結末もなぜか結婚で女としての幸せを噛み締めるというご都合主義的なものであるが、当時の社会の保守的な雰囲気がよく伝わる小説。19世紀以来、多くの小説のヒロインが求めていたものが、「一人前の人間として扱われたい」という彼女の言葉に集約されている。イギリス小説のヒロインで、実験や解剖にも携わるいわゆる「理系女子」というのも珍しいのでは。

【映画】アニメーションで見る動物農場の衰亡

非常勤@桜上水の基礎ゼミの前期授業で、今年もジョージ・オーウェルの小説『動物農場』を読んだ。英語も動物や農場の専門的な単語以外は難しくもなく、長さも半期15回の授業で読み終わるには適当だし、そして何よりも、ロシア革命を描きながらも非常に現代的でリアルな問題を提示していることもあって、イギリス文学というよりも、文学を学んでいく上では格好の教材だろうと思う。それに加え、以前にも紹介したが、岩波文庫の川端康雄訳には詳細でわかりやすい「解説」が付いているので、作品を理解するための格好の参考書になるのも便利である。さらに授業で使いたくなる教材としているのは、この作品にはアニメーションの映画化された作品があることが大きい。今回は、小説ではなく、アニメの『動物農場』について書いてみたい。

動物農場 [DVD]

動物農場 [DVD]

イギリスのアニメーション会社であるハラス&バチュラーが1954年に制作したものを、スタジオ・ジブリが修復したものを2009年にDVDとして売り出したもの。ハラス&バチュラーは1940年代から70年代にかけて活動したアニメーション・スタジオで、この作品のほかにも様々な作品を発表している、イギリスのアニメーションの分野の草分け的な存在である。最近の大学での文学の授業では映画を使うことが多いが、今回、原作を読みながら、同時にこのアニメの作品も観ていく感じで授業を進めてみた。映画化された作品は、それだけでも原作についての十分な批評になり得るものであるが、原作をこのアニメと比較しながら考えることで、おそらく原作だけでは見落としてしまっていただろう点に気づかされた。
全体の物語は割と原作を忠実に再現しており、動物の生態などもきちんと生物学的特徴に基づいたものになっているようで感心した。例えば、初めて農場の納屋に動物たちが集まるときに中庭を横切るが、彼らは堂々と真ん中を渡るのではなく、遠回りをしても壁沿いに並んで歩いていく。これは、人間の目を盗んでの行動であることからくる不安感と、他の動物たちとは違う行動を取りたくなくないという臆病さとをうまく描いた場面であると同時に、確かに、羊たちはそんな歩き方をしそうだと納得できた場面であった。しかしながら、アニメでは、モリーやクローヴァーといった大事なキャラクターが消えているし、ベンジャミンについても性格付けが大いに変えられるなど、原作とは異なる設定もたくさんある。そのひとつひとつをとりあげる訳にもいかないので、ひとつだけ、結末の違いを挙げておきたい。
原作では、ナポレオンを中心とする豚と近隣の人間たちが祝会を開いているところを、年をとって目が霞んできたクローヴァーという牝馬が外から覗き込むところで終わっている。クローヴァーの目には、豚たちと人間との顔が重なってしまい(目の霞みによるものだけではないだろう)、すっかり見分けがつかなくなってしまうところで作品が終わる。つまり、人間による支配を転覆したものの、結局は、それは人間から豚に変わっただけで、自分たちの生活がひどく厳しいということは変わらずに続くという、絶望的な終わり方となっている。ところが、アニメの方は、最後の場面でロバのベンジャミンが活躍する。そこで開かれているのは豚たちによる祝会であるが、それを覗き込んだベンジャミンには豚たちが人間に見えてくる。そして、ベンジャミンの怒りの呼応するかのように、他の動物たちも続々と集まってきて、今度は豚たちの支配を倒すべく、すべての動物たちが立ち上がるという、再度の革命を起こすところで終わっている。原作と比較するまでもなく、アニメの終わり方は、ある種の希望が見えてくるように作られている(もちろん、次にリーダーとなる動物が豚たちと同じ独裁体制を引いていくことは大いにあるので、そう考えれば、これも悲観的な終わり方になるが)。これは、小説と映画という表現形式というよりも、読者と映画の視聴者というマーケットの違いによるところが大きいのだろう。
このDVDの解説だったか、どこかで宮崎駿が非常に興味深いことを書いているのを読んだ。このアニメ作品が素晴らしいできであることは認めながらも、もし自分が『動物農場』をアニメ化することがあれば、独裁者ナポレオンの視点から描いてみたいというもの。それは、彼も最初はいわゆる民主的にことを進めようと考えていたが、他の動物たちがあまりにも無能すぎることに失望し、すべてを自分でやってしまわなければいけないと考えるようになり、やがてブレーキがきかなくなって暴走してしまったという物語となるという。つまり、ナポレオンも悪いのではあるが、彼を失望させた動物たちの無能さにも大きな責任があるのではないか、という問題を提議することになる。
確かに、原作を読んでいると、スノーボールが試みた動物たちへの教育はなかなかうまくいかず、やがて彼らがその努力もしなくなっていく様子がうまく描かれている。そのため、文字が読めない動物は自分たちの「記憶」に頼るしかないのだが、その「記憶」も文字化されて頭に入っているのではなく、印象として残されているものだけに非常にあやふやなものとなっている。だからこそ、豚のスクイーラーに言葉巧みに言い含められてしまうと、自分たちの「記憶」をいとも簡単に豚たちに都合のいいように修正してしまうのである。そして、「記録が残っているのか?」と問われると何も反論できないだけでなく、「七戒」に加筆修正をされてしまっても、それをきちんを指摘することもできなくなってしまう。それだけではなく、スノーボールをめぐっては、英雄から裏切り者へと立場がすっかり貶められるしまうのだ。歴史の改ざんである。
このように、『動物農場』は「記憶と記録」をめぐる歴史認識についての問題提議もしているのだが、ここに至る過程を読んでいくと、必ずしも騙す方にだけ咎めるべき点があると言い切れなくなってくる。民主的な農場を運営を目指していたスノーボールであったが、もし彼が追放されることがなかったとして、果たして、最後まで農場全体での協議によって運営していくという方針を守り続けることができたのかと問われると、とても危ういのではないかという気がしてくる。
もちろん、各個人には能力差があるので、すべてが同等の能力を身につけることはできないことは容易に理解できる。ただ、農場の中には、ベンジャミンのように、文字が読めながらも、すべてが些事であると達観して何もしなかった者たちもいた。また、能力がない者たちも、知識を得ることへの興味を失うことなく学習を続けていれば、遅々たる進みかもしれないが、今あるのとは違った見方ができるようになっただあろう。もしベンジャミンが早い時期に能動的に活動していれば、他の動物たちが少しでも「ことば」を使うことができていれば、動物農場の行く末が大きく変わっていたことは確かである。
まず、アニメーションを観て、興味を持ったなら、ぜひ、原作も読んで欲しい。今だからこそ、日本でも読むべきリアルな問題提議が行われていることがわかるだろう。悪政を招くのは、政治家が悪いからだけではない。その責任は私たちにもある。
動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)

動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)

【小説】時間旅行のツアーはいかが

年に数回、友人たちと指導教授のところで読書会をやっているが、ジョージ・オーウェルを読み終わったので、次はH. G. ウェルズの小説を順番に読んでいくことになった。ウェルズというと、自分の中では、SF小説の先駆者であり、また社会主義的な小説を書いた作家という、わかるような、わからないような、そんなイメージがあるので、これから作品を読んでいくのが楽しみである。
今回は、第1作目の『タイム・マシン』を読んだ。意外なことに(と言うと叱られそうだが)、長編小説はペンギン版で簡単に入手できるようなので、まとめて買っておくことにした。ここでは数ある翻訳の中でも、ウェルズについての論文も書かれている橋本訳を紹介したい。

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

どうも「時間旅行」のモチーフを本格的に小説に取り込んだのはこの作品が初めてのようである。それまでも、主人公が過去に戻ったり未来に行ったりという設定はあるが、その多くは、その人物の意志に関わらず、何らかの事情でそうなってしまうというものがほとんどであった。この小説は、「タイムトラベラー」と呼ばれる人物が、自分の意志でもって未来へと旅立ち、しかも時間の移動については科学的な根拠で一応は説明されるという点で他のものとは大きく違っている。その点に、この小説の新しさがあるのだろう。これ以後、小説のみならず、さまざまな分野において「時間旅行」のテーマが用いられるようになり、現在に至っている。
物語は、いわゆるチャイニーズ・ボックス型の語りの中に語りが入り込むもので、荒唐無稽な物語に少しでも信憑性をもたらせる工夫がされている。科学の理論によって時間旅行を可能にするマシンを発明した人物は、はるか先の未来の世界へと旅立つ。そこでは、人類は二つに分かれ、地上では身長120センチくらいの無力だが気品のあるイーロイが、地下では毛むくじゃらで身体能力も高い類人猿のようなモーロックが、それぞれ暮らしていた。初めは、地上のものたちが地下のものたちを搾取することでその生活が成り立っているものと考えたが、後にそれはまったくの誤りで、地下のものたちが地上のものたちを食用に飼育をしているのではないかと考え至る。
このことは、明らかに、当時のイギリスの社会に対する批判と、そのままの状況を続けていると人間社会そのものがダメになっていくというウェルズの主張を表している。19世紀のイギリスは、ベンジャミン・ディズレーリの「二つの国民」が象徴するように、貧富の差が極限にまで開いただけでなく、豊かで富める人々が貧しい人々の窮状にまったく無関心になっていたことがしばしば指摘される。作品の中でも触れられるが、ウェルズは、社会格差を生み出す社会構造そのものだけでなく、むしろそんな社会的な無関心について批判をしているのだ。つまり、このままの状態を続けると、恵まれた人々はその生活にすっかり満足することで向上心を失い、その後の進歩につながるような努力をやめてしまう。一方、搾取され続けた人々は努力を続けることで、やがて恵まれた人々に勝る能力を身につける。こうして、やがては立場が逆転してしまうというのだ。
この物語の中でタイムトラベラーは未来の地上人のひとりウィーナと疑似恋愛関係に落ちるが、このエピソードは、おそらく他者への「無関心」を強めた同時代人に対して、ウェルズが他者への「共感」こそが人間社会を破滅から救う唯一の道であることを示すものであろう。この点では、例えば、ウィリアム・モリスなどに確実につながっている。その割には、ウィーナのタイムトラベラーに対する想いの強さに比べ、彼の方がかなりドライであることは気になるが…。
その後、タイムトラベラーはさらに未来へと旅を続け、生物が、人間→イーロイとモーロック→蟹のような甲殻類→黒っぽいウミウシ(のようなもの?)へと退化し、やがては何もいなくなることを見つけてしまう。ここでは、ダーウィンの進化論によって、生物のみならず社会も進化し、どんどんよくなっていくであろうという楽天的な幻想に対する強烈な批判を読み取ることができる。
かなり昔に読んだだけで詳細は記憶に残っていなかったのだが、今回、読み直してみて、物語としての面白さを再確認すると同時に、物語の展開や作り方がかなり大ざっぱだという印象も受けた。今後、ウェルズの作品を読んでいくことで、そんな印象が変わるのか、そのままなのか、というのも楽しみである。
余談になるが、急に原田真二の「タイム・トラベル」が聴きたくなって、iTunesのダウンロードしてしまった。世代的に知らない人も多いと思うので書いておくが、原田真二は、デビューから「てぃーんず ぶるーす」、「キャンディ」やこの曲が大ヒットして、そのかわいい容貌からアイドル歌手のように受け止めらてしまう。その頃、中学生だった私は、同郷ということもあったのか、このミュージシャンの曲には特別にセンスの良さを感じていて、こっそりとだけどよく聴いた記憶がある。今回、本当に久しぶりに聴き直してみて、そのときの感じはやっぱり間違っていなかったと再認識。ポップ感覚は本当に素晴らしいので、ぜひ、聴いてみて。懐かしく、新しい。
Feel Happy 2007~Debut 30th Anniversary~

Feel Happy 2007~Debut 30th Anniversary~

【学会】日本オースティン協会第7回大会のお知らせ

下記の予定で日本オースティン協会第7回大会が開かれます。今年は『高慢と偏見』の出版200周年記念の年に当たり、シンポジウムと特別講演とも、この作品について話されます。

● 日 時:2013(平成25)年6月29日(土) 受付:午前10時より
● 場 所:関西大学千里山キャンパス 第1学舎5号館(E棟)5階503教室
● 参加費:(当日会員の場合):一般1,000円、学生500円(当日受付で支払い)

◆開会の辞(10:30〜10:35) 
深澤 俊(日本オースティン協会会長・中央大学名誉教授)
◆研究発表(10:35〜11:55)
研究発表1 10:35〜11:15
山内 理惠(広島女学院大学准教授)「D.H.ロレンスから見たオースティン」
研究発表2 11:15〜11:55
田中 淑子(元川村学園女子大学教授)「お金と愛のバランス―アダム・スミスジェイン・オースティン
◆シンポジウム(13:30〜16:00) 
テーマ:「200年後のPride and Prejudice」
司 会・講 師:惣谷 美智子(神戸海星女子学院大学教授)
講 師:大田 美和(中央大学教授)、向井 秀忠(フェリス女学院大学教授)、星野 龍(元『英語青年』編集長)
◆特別講演(16:15〜17:30)
Stephen Hedley Clark(東京大学客員教授)“Overcoming Cultural Difference: Austen's Pride and Prejudice
◆閉会の辞(17:30〜17:35)

【講演】2013年度日本ブロンテ協会公開講座のお知らせ

下記の予定で、ブロンテ姉妹に関する講演会が開かれます。イングリッシュ・ガーデンの散策ついでにいかがでしょうか。


■2013年度 ブロンテ・デイ公開講座のご案内
日時:2013年6月2日(日) 14時00分から16時00分まで
場所:横浜バラクラ・イングリッシュ・ガーデン 「ヨコハマくらしの館セミナールーム」
(〒220-0024 神奈川県横浜市西区西平沼町6−1 tvk ecom park内)
アクセス:
無料送迎バスで約10分(横浜駅西口地下街南8番出口近く 天理ビルあおぞら銀行前発車)、相鉄線平沼橋駅から徒歩10分
参加費:講演参加は無料、入園料400円、ガーデンツアー200円(11:30)
講演:
大田美和(中央大学教授)「ブロンテと英国地主屋敷の庭園」
惣谷美智子(神戸海星女子学院大学教授)「ブロンテ姉妹の自然を読む」
(司会 向井秀忠(フェリス女学院大学教授))
※昼食はレストラン(予約不要)またはコミュニケーションハウス(ご持参の方)がご利用できます。

【コミック】ハムレットか? テンペストか?

2年前に非常勤@戸塚の学生さんに教えてもらって読み続けてきた『絶園のテンペスト』がいよいよクライマックスを迎えるところまできた。第8巻で最後だろうと一気に読み終えようと思ったが、どうやら勘違いをしていて、次の第9巻で完結らしい。発売は5月22日。楽しみである。

絶園のテンペスト(8) (ガンガンコミックス)

絶園のテンペスト(8) (ガンガンコミックス)

この物語は、タイトルからも想像できるように、シェイクスピアの『テンペスト』が物語の下敷きになっている。ある事情から孤島に流された魔法使いの少女が、偶然に(あるいは必然に、か)知り合った二人の少年と交信をしながら世の中の「理(ことわり)」に抵抗していこうとするもの。そこはコミックなので絵が中心にはなるが、漫画にしては活字も多く、『テンペスト』に加えて『ハムレット』の物語も下敷きになるほか、その他の作品から多くのセリフが引用されている。そのため、原作と併読をしていくと、諸々の出来事やその背景がうまくいかされていることがわかる。
イギリスの文学作品の背景にはどうしてもキリスト教があるので、人間の意志を超えた力が働いていることが前提とされ、例えば、トマス・ハーディなどは、人間がいかにしてその大きな力に抗しながら自らの意志で選択して生きていこうと文字通りに命を懸けて生きていく様を描き続けた。前期の授業のひとつで『テス』を読んでいるが、読み返していくにつれ、そのことを改めて感じている。
そのような物語の多くの主人公たちは、結局は人間の力を超えた意志(『絶園のテンペスト』では「理」と呼ばれる)に破れて悲劇的な結末を迎えることになる。この物語の中でも、「理」の持つ絶大な力をことあるごとに痛感させながらも、それに従わない未来を人間も選ぶことができるのではないか、という信念のもとで人物たちは行動する。そういう意味では、このコミックには、人間は神の御心に従いながら生きるしかないのか、あるいは自らの「自由意志」を持ち得ることができるのかという、19世紀末以降のイギリスの懐疑論的な議論につながるテーマが主音となっていることがわかってくる。ゼミで読んでいる、ジョン・ゴールズワージーの『林檎の木』でアシャーストとステラが交わす神の意志をめぐる議論と重なっている。
各巻の末尾に添えられた「あとがき」などを読むに、原案者はかなりの文学通であることがわかる。それだけに、単純に絵柄に頼るだけでなく、もうひとつのプロットを流すためにも文字による引用文に大きな役割を持たせているのだろう。思わぬ引用から気づかなかった意味を引き出されることもあって、そのお陰で、作品世界の奥行きが深まっていることも確かであろう。たかがコミックと侮るなかれ。非常に文学的で面白い。シェイクスピアはもちろん、19世紀半ば以降の神と人間のあり方についての議論に興味がある人にとっても、面白い視点を提供してくれる作品だと思う。