【小説】暴力、孤独、そして人間であることは…

アントニイ・バージェス、『時計じかけのオレンジ〈完全版〉』乾信一郎訳(ハヤカワepi文庫)

時計じかけのオレンジ 完全版 (ハヤカワepi文庫 ハ 1-1)

時計じかけのオレンジ 完全版 (ハヤカワepi文庫 ハ 1-1)

バージェスはイギリスの20世紀の作家(1917年生、1993年没)。小説のほかにも、評論・脚本・エッセイなど広い分野での執筆活動を行っており、独特な視点からの「イギリス文学史」をまとめた著作もある(いずれ紹介します)、ユニークな作家。本作は、スタンリー・キューブリック監督で1971年に映画化され、むしろ映画の方が有名かもしれません。
時計じかけのオレンジ [DVD]

時計じかけのオレンジ [DVD]

「よう、これからどうする?」という印象的な言葉で始まるこの小説は、近未来を描いたディストピア(「ユートピア=理想郷」の反対)の世界を描いたもの。凶悪な犯罪を重ねる主人公の少年アレックスは、強奪などの目的があるものの、暴力を振るうことそのものに快楽を覚えている。そして、仲間に裏切られて警察に捕まったアレックスは、初めは収監されてキリスト教に基づく再教育を受けたものの、ちょっとしたいざこざから囚人仲間のひとりを殺してしまう。そんな彼を、本人の意志とは無関係に、心理療法によって「まともな」人間に変えてしまおうという試みが政府主導で行われる。果たして、そんな彼が暴力に対する罪悪感を覚えるようになるのかが後半の中心的な物語となっていく。

柳下毅一郎氏が「解説」で指摘しているように、この作品は「自由意志についての小説」として読むことができる。物語の中では「暴力」に対して、自動的に罪悪感を覚えるように治療するのではなく、あくまでも自分の感情をコントロールすることによって暴力を控えるようになることを学ぶことが果たして可能なのか、が描かれていく。

「人は自由意志によって善と悪を選べなければならない。もし善だけしか、あるいは悪だけしか為せないのであれば、その人は時計じかけのオレンジでしかない――つまり、色もよく汁気もたっぷりの果物に見えるが、実際には神か悪魔か(あるいはますますその両者に取って代わりつつある)全体主義社会にネジをまかれるぜんまじかけのおもちゃでしかないのだ」(「解説」p. 318)

何かを選択するということは、時に非常につらく難しいものにもなることもあるが、人間としての尊厳を守るうえでは非常に大切なことなのだ。

結末の章を書き加えるべきか、削除するべきかは議論のあるところだが、私は削除していない完全版の方がよいと思う。この部分が入ることで、アレックスが自由意志を選択したことになるから。確かに緩い感じの結末のつけ方であるのは確かだが、作品の意図はより鮮明に出てくるのではないかと思う。

暴力の快楽にふける主人公に対して読者は嫌悪感を覚えることも多々あるものの、決して彼に敵意を持つことはないような工夫がされている。

まず、読者は「犯罪者を強制的な心理療法によって改善する」という全体主義社会と、それを自分の権力維持という私欲ののためだけに利用する政府や政治家に対する反感を常に感じる。それは当然のこととして、最後にアレックスを救おうとする反政府グループに対しても、自分たちの主張を押し進めるための手段としてアレックスを利用しているのがわかり、結局は政府と同じように批判の対象になっていく。安物の物語のように「正義」が簡単に決められるのではなく、どちらの側も正しくないのだ。

次に、主人公のアレックスが饒舌に語る事柄について、常に読者が彼と近いところにいる、つまり親近感を覚えるような語りの工夫がある。主人公のアレックス自身が語り手となり、読み始めると、まずアレックスの使う言葉が特徴的なことに気づかされる。

「このごろじゃ、なんでもスコリー変わっちゃうし、みんなも、何だって忘れるのがスコリーし、新聞やなんかだってみんなあんまりよまれなくなっちゃってるからな。」(p. 7)

ここで使う「スコーリー」というのは「はやい」という意味。他にも、「なかま」が「ドルーグ」に、「うすらボケ」が「ウスラディム」になるなど、近未来の若者言葉とされる造語が次々に使われている。その言葉のリアルさと文章のもつスピード感と相まって、読者は、まさにアレックスに直接に語りかけられているという錯覚を覚えることで、物語の中にしっかりと取り込まれていく、見事な語りと言えるでしょう。そんな英語を日本語に置き換えた翻訳も、ルビをうまく使い、読みやすくまた見事。

そして何よりも読者を引きつけるのは、アレックスが感じる孤独感、この世の中には信頼できるものは何もないという感覚。人生におけるある時期には強く感じるものの、年をとっていくとやがては忘れてしまいがちな感覚かもしれず、その若い時期の孤独感が読者の共感を集めていることも確か。

また、音楽も巧みに利用されている。アレックスは、クラッシックの交響曲などのオーケストラの音楽によって精神の高揚させる。彼が暴力を振るうシーンでは、まるでBGMのようにベートーベンの『第九』が頭の中で流れている。暴力と交響曲、一見するともっとも縁遠いように思われるものの、考えてみると、あれだけたくさんの楽器が音を集中させてクライマックスを盛り上げていくことが醸し出していく高揚感は、ある意味で非常に暴力的であるとも言える。交響曲の持つそんな「暴力性」について改めて気づかされる作品でもある。

ディストピア」小説の系譜では、ジョージ・オーウェルの『1984年』やオールダス・ハックスリーの『すばらしき新世界』などと比較しながら読んでいくべき。バージェスを含め、これらの作家たちは政治的に見えてしまうせいか、最近、あまり読まれなくなっているのが残念。ただ、今だからこそ、よく理解できる指摘を含んでいることも確か。

また、若者の孤独感ややるせない焦燥感と暴力を結びつけたものとしては、アーヴィン・ウェルシュの『トレインスポッティング』などと並べて読んでみると面白いかも。どうしようもない「孤独感」を描いたいわゆる青春小説として読むことも可能なので、まずはそこから入っていくのがよいかも。

ちなみに、私が一番ドキリとさせられたのは、アレックスが暴力を振るうために侵入した家の持ち主が「ホーム」という名前の小説家で、その作家が書いていた作品のタイトルが「時計じかけのオレンジ」だった、という場面でした。