【映画】ジェイン・オースティンの秘められた恋?

ジュリアン・ジャルド監督『ジェイン・オースティン―秘められた恋』主演:アン・ハサウェイ、ジェイムズ・マカヴォイ

ジェイン・オースティン 秘められた恋 [DVD]

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いよいよDVD化になりました。昨年、日本でも公開されましたが、評判はどうだったんでしょうか?

実は、昨秋の公開の際、日本オースティン協会の大会と時期が重なったこともあり、学会で広告ビラを配りました。また、昨年の後期のイギリス小説関係の授業のいくつかでも配布しましたので、覚えている人もいるかもしれません。
実は、それが縁で、この作品についての映画評を某新聞に書かせてもらいました。興味のある人は探してみてください。見つからないかもしれませんが。
実は、そのとき、どう原稿を書けばいいのか散々迷いました。なぜかというと、「ジェイン・オースティンの〜」と冠をつけると、どうしても批判的に書かなくてはいけないことが出てくるからです。

この映画、正確にはオースティンの伝記的映画ではありません。というよりも、敢えて、伝記的資料が欠けている部分について周り人たちの証言や断片的な記録をもとに想像して作った物語なのです。この映画にはジョン・スペンスの小説『ビカミング・ジェイン』(「伝記」ではなく、「小説」と紹介する方がよいと思います)という原作があり、キネマ旬報社から翻訳が出ています。

ビカミング・ジェイン・オースティン

ビカミング・ジェイン・オースティン

オースティンが亡くなったとき、彼女の姉が手紙の整理をして、かなりのものを焼却したという証言が残っています。この件については、「検閲をした」と表現する批評家もいます。つまり、オースティン自身や彼女の遺族たちにとって不都合なことがことが書かれている手紙を処分したのだろうと推測されているのです。ちょうどその頃、オースティンは青春真っ盛りだったこともあり、浮いた噂の証拠がないだけに、ずっとさまざまに憶測されていました。今回のオースティンの相手役となったトム・ルフロイは、彼女が若いころの本気の相手だったのではないかと長く考えられてきた人物です。

オースティンというと、極端を嫌い、中道を好む、どちらかというと保守的なイメージでずっと考えられてきました。ところが、そんな「ジェントル・ジェイン(お上品なジェイン叔母さま)」というイメージは、彼女の甥や姪たちが、自分たちの生きたヴィクトリア時代のお上品さを求める雰囲気に合わせて創り出したものだったのではないか、というのが最近の研究者の大方の結論になっています。

と言うのも、イギリスの場合、18世紀は道徳的に緩やかだったのですが、19世紀のヴィクトリア時代には道徳観が極端に厳しくなります。オースティンの生きた摂政期という時代は、ちょうどこの二つに挟まれているのですが、まだまだ大らかな18世紀の雰囲気を引きずっていたといわれています。そんな叔母は、ひと世代下で、ヴィクトリア時代の風潮の中で生きていた甥や姪から見ると、その自由さが下品に見えたようで、彼女と親しかった姪でさえも批判的なコメントを残しています。
そこで、偉大な小説家である敬愛する叔母が下品であっては困るので、甥ジェイムズ・E・オースティン=リーなども『想い出のジェイン・オースティン』(翻訳もあります)を書き、そういうイメージを払拭しようとしたのではないかといわれています。

想い出のジェイン・オースティン

想い出のジェイン・オースティン

そんなオースティンのイメージを壊そうとした野心的な伝記が1997年に出版されます。デイヴィッド・ノークスの『ジェイン・オースティン伝』です。これは、ずっと語られてきたような温厚で上品なオースティンではなく、ご近所の人に「尻軽な浮気娘」と評されたという、やんちゃで、ハチャメチャなところのある自然体で魅力的なオースティン像を描き出そうとしたものです。確かに、伝記にしては史実から離れて憶測による部分が多いのですが、最低限の論証は行われているし、何よりもそんな欠点を忘れさせてくれるくらいの面白い伝記になっています。ここで描かれているオースティンは、取り澄ましたお上品なヴィクトリア時代の淑女とは違う魅力がたっぷり。なぜ、翻訳が出ないのか、個人的には非常に不思議に思っています。

Jane Austen

Jane Austen

たまたまですが、この伝記が発刊されたときに在外研究でイギリスに滞在中で、Dillonsという本屋さんのケンブリッジ支店がノークスの講演会を企画しました。伝記を読んで面白かったのですぐに申し込み、非常に楽しみにしていたのですが、結局、何かの理由で講演会が中止になり、残念に思ったことをよく覚えています。そういえば、そんなDillonsは、Waterstonesという本屋さんに吸収されたとかでなくなったらしく、好きな本屋さんだったので残念です。青地に金文字で店名が印刷されたビニールバックはなかなかのデザインだと思っていましたが。

ジョン・スペンスが描こうとしたのもそんな元気溌剌としたオースティン像です。ですから、この映画の中で描かれているのは、あくまでもフィクションであり、事実ではありません。そのことがわかって観れば問題ないのですが、「これがオースティンだ」と考えるのは間違っています。その点はご注意を。

また、この映画の問題は、意図的なのかどうかわかりませんが、アナクロニズムなものを盛り込んでしまっていることです。例えば、映画の中でオースティンがヘンリー・フィールディングの『トム・ジョーンズ』を読んで、挿絵を見てどぎまぎする場面があります。確かに、オースティンはフィールディングを読んではいるのですが、ただ、この時代の小説には挿絵はありません。挿絵が入るのはヴィクトリア時代以降のことです。また、トムがボクシングに講じる場面がありますが、この時代、紳士階級の人間がボクシングに関わることは稀であり、また淑女がそれを観戦することもあり得なかったようです。この頃のボクシングは、パブなどの裏手で行われていた賭け事でした。こういった時代錯誤的な場面はBBCのドラマなどにはあり得ないだけに困ったものだと思ってしまいます。そういうこともあって、残念ながら、内外のオ−スティン学者には非常に評判の悪い映画となってしまいました。このときの経験で『高慢と偏見』が書かれたと考えるのも、ちょっとなあ、と私も思います。

そこで、提案。
この映画は、恋愛モノとして観れば(感傷的にすぎる感じもありますが)とてもよくできたもので、なかなか面白いものだと思います。オースティンと切り離すのは無理なので、オースティンのあったかもしれない恋愛物語を想像するという感じで観るとよいではないでしょうか。