【研究書】シェイクスピアを書き替える

人間の決心というものがいかに弱いものか、思わず自分が証明してしまいました。前回のブログで、毎週のアップを目指します!、なんて書きながら、いきなり2週間も放置。その間、確かに国民的入試の実施責任者をやったり(うちでは無事でしたが、全国的にはいろいろと問題があったようで大変です)、確かにいろいろと忙しかったのですが、それでも言い訳ですね…。
さて、授業にひとつに「ヴィクトリア時代の文芸と社会改良」(どこかで聞いたことのある響き…)をテーマにした講義があり、今回、シェイクスピアの改作について話をしなくてはいけなかったので、あわててCiNiiで関連論文を調べたり、研究書を探したりした。でも、ヴィクトリア朝期のシェイクスピア改作について書いてあるものがなくて意外でした。
そんな中でも参考にしたのが下記の本。授業のネタ本を明かすことになるので嫌なのですが、私の話の足りないところをきちんと補ってくれると思うので紹介します。

シェイクスピアの変容力―先行作と改作

シェイクスピアの変容力―先行作と改作

本書では、『ヴェニスの商人』『トロイラスとクレシダ』『尺には尺を』『ロミオとジュリエット』『リア王』の5作品について、そもそものシェイクスピアが素材をとったものの紹介と、シェイクピアの作品を改作したものについて紹介されており、「元ネタ➔シェイクスピアの作品➔改作」の三つが比較されているのでわかりやすく読むことができた。
通読してみるとよくわかるのは、シェイクスピアの作品も、王政復古期になると随分と、不道徳で、品がなく、野暮ったいものに見えていたということ。現在の感覚で読んでみると、確かに「おいおい」と突っ込みたくなるような下ネタもあるにはあるが、だからといって、それが問題になるとはどうにも思えない。やっぱり、考えすぎではないかい?、と突っ込みたくなる。
授業では、ネイアム・テイトの『リア王』の改作について話をしたので、本書の第5章が参考になった。「詩的正義」の遵守の姿勢や道化が消されてしまった意味などについてよくわかった。そして、「結語」では次のように論が締められる。

 思えばシェイクスピアも偉大な改作者であった。その作品のほとんどが改作であると言えるのである。そして彼が使ったと思われる『リア王』の材源は、リアとコーディリアとの関係でみる限り、すべてハッピー・エンドなのである。もちろんテイトがそのことを知っていたかどうかの確証はなにもない。しかし、この改作のある意味での成功は、この種の民話的なストーリーの持つ、フレーム・ワークの強さを示しているかのようであり、またシェイクスピアこそ、その強力な枠組みをあえて破ってみせた異端者であったのかもしれない。(265頁)

ここでは、「かもしれない」という遠慮がちなレトリックが用いられているが、本当は「のである」という断定調になるんべきなのであろう。改作された作品を直接は読んでいないので無責任ではあるが、敢えて言ってみれば、ドライデンを含め、シェイクスピアの場合、彼のものを超えた改作はないように感じた。なかなか本家越えは難しいということなのでしょう。やっぱりシェイクスピアはすごいんだろうな、と改めて考えた(著者たちの術中にはまったとも言えますが…)。
改作(映画化もそうなのだが)について考えるのが面白いのは、時代の考え方の趨勢がはっきりとわかること。授業の中では、ヴィクトリア時代前期のジェイン・オースティンの評価の低落や、トマス・ハーディの『テス』などに対する批判についても話をして、時代の嗜好によって作家や作品の評価が上下動することも話をした。そういうことを理解したうえで、じゃあ、今の私たちはこれらの作品をどう読んでいるのか、そのことについて考えることはとても興味深いと思います。