【小説】「物語ること」の力

ロイド・ジョーンズ、『ミスター・ピップ』大友りお訳(白水社

ミスター・ピップ (EXLIBRIS)

ミスター・ピップ (EXLIBRIS)

ロイド・ジョーンズ(Lloyd Jones, 1955- )は、ニュージーランド生まれ、在住の小説家。本作は、ブッカー賞の2007年度ショートリストにもノミネートされるなど、高い評価を得ているという。

広く英語による小説なども紹介していきたいので、ニュージーランドの作家もここに含めます。

「ピップ」と聞いて、ピンときた人は、なかなかのやるな!という感じ。
そう、ディケンズの小説『大いなる遺産』の主人公の男の子の名前。『大いなる遺産』は、貧しい孤児の少年が、心当たりのない後援者を得ることによって「ジェントルマン」となるべく教育を受けて、階級を上っていくが、はたしてそれが本当に幸せなのか、という物語が中心になったもの。そして、その物語が、主人公のピップによって語られるという点がミソ。

いわゆるお涙頂戴の感傷的な感じがあるけど、ディケンズの語りには人に読ませる独特な魅力があって、ついつい引き込まれてしまう。大学生になって初めて読んだときには、年甲斐もなく、最後のクライマックスの場面で、不覚にも、ウルッときてしまいました。

もちろん、『大いなる遺産』を読んでから『ミスター・ピップ』を読めば、より楽しめるのは確かだけど、その点は気が配って必要なことは説明されるので、読んでいなくても大丈夫。ディケンズの小説の分厚さにひるんだとしても、まずはこの作品を読めば、自分自身のピップを求めて、絶対に『大いなる遺産』も読みたくなるはず。

『ミスター・ピップ』も、元ネタの『大いなる遺産』と同じく、メタ小説(小説が書かれる過程を小説に書いたもの)となっている。
語り手は、ブーゲンヴィル島の小学生の黒人の少女マティルダ。物語は、ヨーロッパの資本主義がこの島にも介入し、そこから大きな利益を得るパプア・ニューギニア政府と独立を目指す革命軍とが激しく対立した「ブーゲンヴィル抗争」を背景とする1990年代初頭のこと、この島が封鎖されてしまったことに始まる。
文字通り、逃げ場を失ってしまった島民たちは閉塞感を覚える。そんな中、島の唯一の白人であったミスター・ワッツが教師となり、子どもたちに物語を語って聞かせていく。それが『大いなる遺産』の朗読(と思っていたもの)だったという話。
どんなに危機的な状況にあっても、人間は物語ることによって救われるのではないか、という試みの物語としてまずは読むことができる。事実、子どもたちを含め、島の大人たちも自分の物語を他の人たちに語ることで、自分の存在そのものを再確認しているのであった。
しかしながら、そんなセンチメンタルで幸せな話だけでは終わらない。終わりの四分の一くらいからは、そんな希望を吹っ飛ばすような過酷な現実が現れる。「物語ること」などでは解決することができない暴力が理不尽さをもって吹き荒れることに。
読んでいて本当につらくなり、変な言い方だけど、読んでいる自分が男性であることに強い嫌悪感を覚えてしまうほどのひどい出来事に主人公は襲われ、すべてを失ってしまうことになる。
しかし、それでも、人間は生きていかなくてはいけない。では、どうやって…?。
もちろん、明確な答えなど出すことができるはずもない。つらい経験の後、それでもマティルダは、『大いなる遺産』の、そしてディケンズの足跡を訪ね、それを「物語る」ことによって救いを見い出そうとする。やはり人間は自己の「物語」の中を生きているということだろうか。

ニュージランドの白人男性作家による旧植民地の黒人少女の物語だけに、容易にいくつもの論じるべき視点が見えてくる。植民地の問題、白人―黒人の人種問題、男性女性のジェンダーの問題…。ただ、個人的には、最近の自分の関心とも結びつき、先にまとめたような「物語ること」のもつ救いの試みについての物語と読んでしまった。

いろいろと考えることはできるものの、まずは物語の「語りの力」を素直に堪能すべき小説。訳文も主人公にぴったりのものとなっていて、グイグイと引っ張られてしまうだけの勢いを持っている。終わりの四分の一の部分が失敗しているという書評もあるようだが、この物語を完結させるためには、そういう内省的な個所が必要だと思う。ぜひ、読んで欲しい作品のひとつ。

それにしても、なぜ、閉じ込められた状況の中で読まれるのはいつもディケンズなのか? 
実は、ジャングルに閉じ込められた白人男性がディケンズの作品を朗読することを強いられるという設定が、イーヴリン・ウォーの『一握の塵』の中にも出てくる。後期の授業でそのことを話したとき、「ディケンズであることに意味があるんですか?」という、なかなか鋭い質問があった。そう、やっぱり、そんな状況で読むのはディケンズじゃなくては…。ウォーの場合はディケンズであるからこそ皮肉のニュアンスが最高値にまで上がっている。では、ジョーンズの場合は? 考えてみると面白そうな問題ですね。