【スピーチ】なぜ、小説を書くのか?(=なぜ、大学で文学を学ぶのか?)

明日から新年度の授業が始まります。初めて大学で授業を受ける人、大学での最後の年になる人、いろいろだと思いますが、何かを学ぶことができたと思える1年になれば、と願っています。

さて、生活にゆとりがなくなってしまうと、実用的でないことに対して否定的な合意が社会全体で作られる傾向があります。例えば、イギリスのヴィクトリア時代半ばから世紀末にかけて、「実用的であるかどうか」「役に立つものであるかどうか」ということが問われる風潮が強くなりました。イギリスは、18世紀後半にはまだ萌芽的であった産業革命が19世紀半ばからは加速度的に進行していきました。そのお陰で多くの人たちの生活が豊かになっていく一方、こうした急速な進歩がもたらせる弊害として貧富の差が極端に大きくなったのです。首相でもあり小説を書いたベンジャミン・ディズレーリの言う「二つの国民」の誕生です。

そんな時代、頑張れば豊かになれる、豊かになれないのは頑張らないからだ、という「自己責任」論が幅を利かせ、やがて社会的無関心を招くことになりました。つまり、きちんと努力しない人が悪いのだから、社会的に助ける必要はない、そして、役に立たないものは必要ない、という考え方。

何だか、今の日本と似ていると思いませんか?

現在の日本でも社会の二極化が進み、経済格差が異常に大きくなり、さらに経済不況という追い打ちによって、「役に立たないものは必要ない」という今実用主義的な考え方が極端に社会全体に浸透しています。事実、企業のスポーツ活動や芸術活動に対する支援(いわゆるメセナ)が次々に打ち切られてきました。いわゆるバブル期には、利益を社会に還元すると声高らかにスポーツや芸術などにお金を派手に投資していた多くの大企業は、不況になると一転、儲かるものにしか投資をしなくなったのです(もちろん、不況の中でも苦労しながらも真のメセナ活動を続けている例外的に素晴らしい会社もたくさんあります)。

当然のことながら、同じような風潮が教育の分野にも浸透しています。大学でもっとも強い逆風が吹き荒れている学問分野のひとつが「文学」であることは間違いないでしょう。「文学部」、特に「英文学科」や「日本文学科」のような伝統的なコンセプトで作られている学科は、この「実用」一点張りの雰囲気の中で苦労しています。事実、多くの大学における「英文学科」は、文学教育の大部分を捨て、コミュケーション重視へと方針転換を行うことを強いられました。その結果、学科名を「英語文化学科」や「英語コミュニケーション学科」のような「実用」を強調するようなものへと変更し、看板替えを行ってきました。現在、大学で「文学部英文学科」を名乗るところは本当に少なくなっています。

では、本当に「文学」は実用的なものでないのでしょうか? 本当に役に立たないものなのでしょうか?

2009年、村上春樹エルサレム賞が与えられたとき、受賞すべきかどうか、エルサレムでの授賞式に出かけるべきかどうか、について議論になったことがありました。これはそれぞれの思想的立場によって答えが変わってくる事柄なので、その是非についてここでは議論しませんが、彼はエルサレムまで出向いて授賞式に出席しました。その際、彼が行ったスピーチには、先のような疑問について考えるためのヒントが含まれているように思われます。

このスピーチについては、「卵」と「壁」の話ばかりが大きく取り上げられますが、英文学を研究し、また曲がりなりにも大学で教えている立場で気になったのは、小説家の仕事について触れた下記の部分です。

「私の答えはこうです。すなわち、巧みなうそをつく、いわば、本当のようにみえる虚構を作ることで、小説家は真実を新しい場所に引き出し、それに新たな光をあてることができるのです。ほとんどの場合、本来の形で真実を把握し、それを正確に描くことは、事実上不可能です。このため、私たちは、真実を隠れている場所から誘い出して、虚構の場所に移しかえ、虚構の形に置き換えることによって、真実のしっぽをつかもうとするのです。けれども、これを達成するためにはまず、私たちの中のどこに真実があるのかを明確にしなければなりません。これが、うまいうそを作り出すための重要な資格です。」(「読売新聞」ホームページより、http://www.yomiuri.co.jp/national/murakami/。ぜひ、全文を読んでみてください。)

社会というのは私たちが考えているよりもずっと巧妙にその本心を隠し持っているものです。日常生活の中ではなかなかそのことに気づくことがありません。一見、平和に幸せに見えるような社会においても、実は常に多くの問題がうまく隠ぺいされながら存在しているのです。そんな多くの人の目には見えない問題をいち早く見出し、事実を暴くことだけではうまく伝わらないため、小説というフィクションの世界に問題を置き替えることで見えやすくし、社会全体に警鐘を鳴らすのが小説家の仕事なのだ、村上春樹はスピーチの中でそう言っています。

これは、おそらくアメリカの小説家で村上自身も好きだと公言しているカート・ヴォネガット・ジュニアが使った「炭鉱のカナリヤ」の比喩、つまり、「すべての表現者は炭鉱のカナリアのように、誰よりも先に危険を察知して世間に告げる」からヒントを得たものと思われます(ヴォネガットの作品はどれも面白いのですが、ここでは下記のものを紹介します。村上春樹の好きな人は気に入ると思いますので、ぜひ読んでください)。

先のようなヴィクトリア時代にも「炭鉱のカナリヤ」であった作家たちが多くいます。例えば、ディケンズやギャスケル夫人などの社会小説はわかりやすいのですが、ディケンズの「クリスマス物語」やオスカー・ワイルドの「幸福な王子」などのこの時代の童話とされる作品にもそのことが色濃く出ています。そこで批判されるのは、貧困の問題とそれに対する豊かな層の無関心さです。
もしヴィクトリア時代のイギリスの社会と現代の日本の社会が似たような問題を抱えているのだとすれば、村上春樹のスピーチをヒントにすることで、大学で「文学」を学ぶことの意味が見えてくるのではないかと私は考えています。自分自身では「炭鉱のカナリヤ」になれないしても、文学を学ぶひとりひとりが「炭鉱のカナリヤ」の声を聞き逃さないことでもって、社会全体はずっとよくなっていくのではないでしょうか。

もちろん、小説などの文学作品は楽しみのために読むのです。それが第一の目的であることは間違いありません。ただ、大学で学ぶ学問となると、それだけでは十分ではないでしょう。もっと社会と密につなげながら文学作品を考えることが必要になってくるのだろうと思います。
大学での学びには、もちろん、英語を十分に使いこなせるようになるための実用的な面があることは間違いありません。「英文学科」でも、英語の運用能力を高めていくことについては重視していくべきだと思います。でも、その点を重視するあまり、それ以外の部分を切り捨ててしまうこと(そこまでいかなくても主目的でなくなってしまうこと)はやはり違うのではないかと、村上のスピーチを読みながら改めて考えました。「英文学科」に所属する教員のひとりとして、あくまでもその点にこだわり続けたいと思います。

これからの一年の大学の授業が、そんな「炭鉱のカナリヤ」の声を正確に聞きとれるようになるためのきっかけになるように努めていきたいと思います。