【読書ツール】紙の本はなくなってしまうのか?、その1

ゴールデン・ウィークはいかがですか? これまでの妙な天候とは打って変わって、快晴で暖かい日が続いています。どこかへ出かけるには絶好の日和ですね。

朝日新聞が、ときどき差し込み版『朝日新聞グローブ』を発行しています。「著者の窓辺」「ロンドンの書店から」という記事が載るので、いつもチェックをしています。その第39号が今日の新聞に入っていて、「電子ブックは紙を超えるか」という特集をしているのを読みました。

特集の記事としては、電子ブックのツールの進歩が目覚ましく、これまでに普及のネックとなっていたさまざまな問題点をどんどん解消しているというもので、近いうちに、今度こそ、本当に紙媒体にとって代わるのではないか、という内容のものです。あまり興味がないので、アマゾンの出してるKindleしか知らなかったのですが、他にも4種類があり、中国も参入しているのには驚きました。まだ日本版は出ていないので馴染みはないのですが、電車の中でアメリカ人らしき人がKindleを読んでいるのを見かけ、おぉ、本当に出ているんだ、と興味津々で覗き込んだことがありました。でも、どうなんでしょうか?

OverLay Plus for Amazon Kindle 2 低反射 アンチグレア 非光沢 液晶 保護 シート フィルム OLAK2

OverLay Plus for Amazon Kindle 2 低反射 アンチグレア 非光沢 液晶 保護 シート フィルム OLAK2

書籍や資料のデジタル化が進むと紙代が節約できるということで、多くの大学で導入が進んだのですが、実際は反対に紙代が増大している、という話をある出版社の人から聞いたことがります。結局、書き込めない、大量の文書を読みにくい、などの理由で、みんながコピーをして紙で読むからだそうです。その気持ちはよくわかります。
『グローブ』の今号でも、プリンストン大学の同様の例を挙がっていました。ただ、同大学でアマゾンのKindleを学生たちに使わせたところ、紙代はなんと半分に減ったというレポートも添えられていました。読みやすくなったということでしょう。ただ、被験者が試されていることをわかっている場合には好意的な反応を示す傾向があるようなので、このデータにどこまでの信憑性があるのかは疑問ですが、これまでのものと比較して、使いやすくなったのは確かでしょう。では、本当に紙の本はなくなってしまうのでしょうか?

紙派の偏った人間としては、本や雑誌については、そんなことにはならないだろうと思います。もちろん、モノとしての本が好きな人間なのでそう思うのですが、読書をするということだけについては電子ブックは馴染みにくいと思います。ただ、新聞や会議の資料などはなくなる可能性は高いと思います。その違いは何かというと、「繰り返し読むことがあるのかどうか」ではないでしょうか。

新聞や会議などの資料は必要がなくなれば読むことはなくなり、必要に応じてデータとして保存されているものを探してくればいいのだと思いますが、本や雑誌の場合、やっぱりそうはいかないのではないかと思います。
私の場合、本に線を引いたり書き込みをしたりすることも多いので、そういうことはやっぱり紙でないとできません。また、雑誌の場合にも、写真を切り取ったりすることもあるのではないでしょうか。辞書についても、電子辞書が全盛ではありますが、私はOED(『オックスフォード英語辞典』)にしても、CD-Romではなく、紙のものを今でも使っています。必要な場合には、複数のものを広げて並べて調べることができるからです。さすがに、電子ブックではできないことなのではないでしょうか。
ただ、電子ブックにもすぐれたところがあります。検索機能です。例えば、先のOEDを調べる場合、「オースティン」をキイワードで検索をかければ、彼女ががどのような英単語をどのように使っているのか、その用例をすぐに調べることができます。これは紙媒体の辞書では不可能なことです。
また、「リポジトリ」といって、雑誌の論文や記事などをインターネットでダウンロードして読むことができるようになってきており、ちょっと調べ物をするときにはこれは非常に便利です。有料の場合もありますが、無料のものも多く、みなさんがレポートを書いたりするときには、図書館のサイトの「CiNii(NII論文検索ナビゲータ)」で検索すれば見つけることができます。かなりの数がPDFで保存されており、そのまま読むことができます。

結論。紙の本は生き残り、読み捨てられるものについては電子ブックに替わっていく、というところでしょうか。これは甘い推測でしょうか?

やっぱり、紙の本でこそ読みたいものがあります。私の場合、高橋康也著『エクスタシーの系譜』は何度も繰り返して読んでいる本なのですが、これは筑摩叢書版ではなく、あぽろん社版の箱入りのものでないときちんと読めた感じがしません。装丁も含めた全体が「本」だということは武井武雄著『本とその周辺』(中公文庫)に教えてもらいました。
また、日本英文学会でもリポジトリ化を進めることになり、間もなく、学会誌『英文學研究』の和文号・英文号ともにすべてをダウンロードで読むことができるようになります。たまたま、その作業を担当することになり、事務局に並んだ第1号からのすべての雑誌を手に取る機会がありました。特に古いものには、さすがに日本の英文学研究の重みを感じさせるものがあります。そういう古い感覚に対する抵抗感のある人もいると思います。ただ、そろそろ人生の後半にも差し掛かってくると、そういう感覚も大切なのではないかとも思うようになりました。保守化というやつでしょうか…。圧倒的に便利になる反面、ダウンロードで読んだ場合には、雑誌の黄ばみや染みなどだけでなく、その号の持っている匂いなどを含め、そういうものが引き継がれてはいけなくなりそうなのは残念でもあります。

研究室や自宅にある大量の本を前に途方に暮れることもあり、これが電子化されれば全部なくなるのだという誘惑には負けそうになることもあります。そうすれば、地震がきても安心な研究室で卒論指導もできるし、増え続ける本の置き場所についての家庭不和も解消できるのですが…。でも、私の場合は、やっぱりこれからも本は増え続けていきそうです。

みなさんはいかがですか?