【文化研究】「俺たち」と「あいつら」

前期に「カルチュラル・スタディーズ」という講義を担当した。あらゆる文化現象の背後には、見えない社会の「抑圧」が働いていることを見抜いていける視点が得られるように心を砕いたつもりだったが、やはり専門ではなかったためか、大いに散漫になってしまったことを反省しているところ。とにかく、気づかないうちに自分も社会的偏見にとらわれてることに気づいてもらえれば十分かと思う。
先日、前期のレポートの課題のひとつとして、映画『さらば青春の光』を観た。

この映画を扱うに際しては少々心配をしていた。たぶん、「面白い」と思う人と「つまらない」と感じる人に大きく分かれるであろうし、中には「不快だ」と感じる人もいるのではないか、と考えたからだ。だって、映画に出てくるのは、ファッション、セックス、ドラッグ、暴力に固執する若者たちだけなのだから。と言うのも、日本の場合、「イギリス」といって想像するものはアッパー・ミドル以上の生活文化を意味することが多く、この映画で扱ったような労働者階級のものは馴染みがない人が多いのではないだろうか。この授業で、もうひとつE. M. フォースターの小説『ハワーズ・エンド』の映画を扱ったが、こちらも随分と不愉快なテーマを扱っているものの、アッパー・ミドルのオブラートに包まれているため、こちらは特にそんな心配はなかった。事実、『ハワーズ・エンド』にはなかった感想が『さらば青春の光』には寄せられた。「面白くなかった」とか「興味が持てなかった」とか。
この映画は、The Whoというイギリスのロック・バンドのアルバム『四重人格』の歌詞をもとに物語を作成したものである。そのため、ひとりの学生が「The Whoを聴いています。ギターが格好よかった」といった感想を書いてくれている一方で(嬉しいコメント!)、ロックの嫌いな人にはうるさいだけのBGMだろうと思う。
四重人格

四重人格

実は、私、高校時代に結構熱心にパンク・ロックを聴いていた。ただ、Sex Pistolsはあまりにも作り物っぽくてダメだったし、The Clashも自分には悪すぎる感じがした。そんなこともあり、どこかお洒落な感じのあったThe Jamが好きで、長じて大学時代にはThe Style Councilを引き続き聴いていた。そんな流れでThe Whoも聴くようになり、ギターを壊すパフォーマンスだけでなく、その重厚な音にヘッドフォンで随分と浸っていた。確か、『さらば青春の光』は大学時代に新宿の映画館で見た記憶がある。
この映画の鍵となるのが、自分たちの存在意義を確認するのに「他者」を利用し、いわゆる「我々」と「奴ら」に分けて考えているところ。傍目には、モッズとロッカーズの区別など些細なものに思えるにもかかわらず、当人たちは真剣に差別化を図る。そして、ブライトンの暴動前には「俺たちはモッズだ!」の大合唱が街に響き渡る。日常生活の閉塞感を解消するためのある意味での二重生活(昼間は人に使われるが、夜にスクーターに乗れば王様になれる)こそが、彼らのプライドを支えるものであり、唯一つのよりどころにもなっているのである。だからこそ、すべてを失った主人公は、「自分」を取り戻せるのではと期待してブライトンに行くものの、そこで目撃するのは憧れていたモッズのリーダーの「日常」の姿であった(ホテルのベルボーイとして使われるだけ)。彼らの閉塞感やイライラがよくわからないだろうか。
イギリスの若者文化の先駆的な研究書となったのが下記の本。モッズやロッカーズをはじめ、イギリスの若者たちが群れてきた歴史について概観することができる。そこから見えるのは、競争社会を抜け出ることができるほどの才能を持たない労働者階級の若者たちの生き方。
イギリス「族」物語

イギリス「族」物語

モッズにしても、現在では、フレッド・ペリーのポロシャツ、モッズ・コート、べスパのスクーターなど、単なるファッションになり下がってしまっているものの、当時は非常に「暴力的」な存在であった。そこには、出口の見えない社会の閉塞感の中で悶々としている若者たちのパワーを見ることができる。今の日本社会も同じような雰囲気だと思うが、若者たちの穏やかなことに驚かされてしまう。本書を再読しながら、そんなことを考えてしまった。
いずれにしても、アフタヌーンティーカントリー・ハウスやジェントルマンだけが「イギリス」ではなく、『さらば青春の光』やケン・ローチ監督らが描く世界もまた「イギリス」なのである。価値観を相対化するためにも、授業を通して、そういう世界についてもどんどん紹介していきたいと思っている。