【小説】歴史と現実が交錯する面白さ

とても面白い小説を読み終えたので紹介したいと思います。ロバート・ゴダードの『千尋(ちいろ)の闇』(創元推理文庫)。下記に上巻のみ載せておきます。上下巻で合計800ページあまりの長編小説ですが、その長さが苦痛にはならないほど面白い作品でした。

千尋の闇〈上〉 (創元推理文庫)

千尋の闇〈上〉 (創元推理文庫)

この小説はいわゆるミステリーに分類されるようで、『IN☆POCKET』という雑誌の1997年11月号では「文庫翻訳ミステリー・ベスト10」の「作家・評論家が選んだ第1位(総合第2位)」という宣伝文句が帯に書かれています。ただ、確かに謎解きがメイン・テーマではありますが、私の読後感は、これは立派な歴史小説だろうという感じでした。元歴史教師が謎の多い人物から依頼され、20世紀初頭に大臣を務めた政治家の回顧録を読み、この政治家の公私に渡る不遇の謎について調査していくというもの。主人公の生きる現在(1977年)が、政治家の回顧録の過去(1900〜50年くらいまで)と密に絡み合ってくる物語の展開にはぐいぐいと引き込まれます。もちろん、主人公は客観的な立場の人間ではなく、この政治家の過去がいつの間にか主人公の過去とも重なっていく。この作品が称賛される際によく触れられることでもあるが、とても処女作とは思えない作品構成の複雑さと、それを読者に苦もなく読ませる筆力は相当なものだと確かに思わされます。ミステリーでは、物語がひっくり返ることを「二重底、三重底」というようですが、読み進めていくうちにいくつも伏線があって、それが効果的に読んでいる者を驚かせてくれます。いつになったら真相にたどり着くのか。
ゴダードの早い時期での日本への紹介者である京都大学の佐々木徹先生は、『蒼穹のかなたへ』(文春文庫)の「解説」の中で、「エンディングに少し不満が残ったものの、現在と過去が巧みに交錯させてあって、筋の展開の面白さで読ませる長編としては近来稀にみる出来映えの小説」と書いています。確かに、結末は今一つのような感じもしますし、それよりも、私には主人公が惹かれるケンブリッジ大学若い女性の歴史学者の描き方があまりにも男性目線から描かれた平板な感じがして、あまり現実感がありませんでした。彼女が絡むエピソードはそれなりに重要ではありますが、なぜ、そこまで惹かれるのかが、いわゆる性的魅力だけで説得力に乏しいような気がします。ただし、そんな欠点はあるにしても、この小説がとても面白いすぐれたものであることには違いありません。これぞ小説を読む面白さ、を実感させてくれる作品です。
もともと、20世紀初頭のイギリスで活動したサフラジェット(戦闘的女権運動の闘士)について授業などで紹介するのに役立ちそうな小説はないかと探している中で見つけた作品。そういう運動に否定的な政府、その政府で大臣を務めながらも内心は運動に同情的な政治家、そして彼の恋人は熱心な活動家…。これだけでも面白い物語になりそうですが、20世紀初頭の政治問題、特に女権獲得運動に興味のある人には、その概要を学ぶための格好の教材にもなりそうです。個人的には、回顧録を残した政治家もそうですが、私は誰よりも彼の恋人、特に老年の彼女に大いに惹かれました。彼女のように、「覚悟」をもって年をとりたいと。
ゴダード自身、ケンブリッジ大学歴史学を学んだだけに、作品の中の時代考証はしっかりしているとのこと。安心して作品の世界に没入できます。登場人物には、時の首相のアスキスのほか、ロイド・ジョージチャーチルなども登場し、物語に絡んできます。そういう意味では、歴史上の実在する人物が架空の人物と遭遇することで新たに物語を作り出す、最近流行りのポストモダン的な歴史小説としても十分に読むことができると思います。あと、少しの間ですが、ケンブリッジで暮らしたことがある者としては、ケンブリッジの描写(歴史学部の建物、グランチェスターへのパントの船旅、詩人バイロンが泳いだというバイロン・プールという川の溜まり、グランチェスターにあるレッド・ライオンというパブなど)は懐かしい限りでした。
いろいろと書きましたが、とにかく面白い。「血沸き、肉躍る物語が好き」というのは先の佐々木先生がよくおっしゃることですが、まさに小説(物語)を読む面白さを堪能させてくれる作品といえると思います。小説好きの人は、ぜひ、読んでみてください。私も、次には、仕事の合間合間に第2作『リオノーラの肖像』を読んでみようと思います。ただ、読み始めると面白くて、肝心の仕事の方に手がつかなくなるのが心配ですが…。