【雑考】読みたい本、読むべき本…

最近、反省しているのは読書量がめっきり減ってしまっていること。ここでいう「読書」とは、授業の準備や論文を書くために読むものに加え、純粋な楽しみのために読むものも含んでいる。院生時代、呑気にも「読書ノート」なるものをつけていた。指導教授がこまめにメモをとる人で、授業には扱う作品のメモ(それが結構分厚い)が登場していたのを見て、そのマネをしようと思ったのだ。もちろん、そんなに詳細なものではなく、B5のノートに1ページくらいで、主な登場人物・あらすじ・コメントなどを書きとめた。レポートを書くために読んだものはもちろん、授業などとはまったく関係のない本についても書いている。
自分でも驚くのは、日本語の本がほとんどなのではあるが、大学4年から就職をするまでの5年間で年間130冊くらいを読んでいることがわかる。もちろん、すべてをじっくりと読んでいる訳ではなかったが、3日で1冊の割合というのはすごくはないだろうか(私の場合、通常、3冊くらいを並行しながら読んでいるので、正確には「3日で1冊」というわけではないのだが)。幸運にも大学に職を得てからは、さすがにこのペースは落ちたものの、それでも結構な数の本を読んでいたと思う。それが、ここ数年、めっきり冊数が減ってしまった。私の中では本には二つの種類があり、「読みたい本」と「読むべき本」である。前者は純粋な楽しみで読むもの、後者は多少とも授業や研究の準備に関わるもの。読む冊数が減ったのは圧倒的に前者である。なぜか。
ひとつにはひとり暮らしではなくなったことが大きいと思う。ひとりの場合、時間の算段は自由にできるため、生活のペースを自分で決められる。もともとテレビはほとんど見ないので(昔から週に2時間も観れば多い方。もちろん、ワールドカップやオリンピックなどの時期には例外)、音に邪魔されることもない。そもそも、人と話をする必要があるのとないのとでは大きく違う。生来、家型人間で、用事がなければ、ずっとひとりで家にこもっていても苦にはならない。本とCDがあれば。それが年をとり、自分の家族ができるとそうもいかなくなってしまった。まあ、これは仕方がない。
もうひとつ大きいのが、大学の研究室が遠くなったこと。以前の勤務先では徒歩5分で行き帰りができたので、大学の研究室はすっかり書斎のようなものであった。曜日や時間に関わらず出入り自由で、仕事が終わるといったん帰宅し、その後、夕食などを済ませ、子どもが寝た後の午後10時くらいに家を出てもう一度大学に向かう。その後、4時間くらいは研究室にこもって本を読んでいた。休日も午後に4時間は研究室に出かけることにしていた。だから、本の多くを研究室に置き、家ではほとんど仕事はしなかった。それが、通勤1時間余りかかる今、電車に乗って…と思うとなかなか研究室に出かけることはできない。だから家に本を持って帰るようになり、部屋から溢れた本は廊下に平積み、そのことで家族には文句を言われるし、家にいれば、それなりの雑用も言いつけられるし…。徒歩で行ける市の図書館に出かけることも試したのの、大学図書館に慣れているだけにうるさくてダメ。そんなことも言い訳にしているが、そろそろ新しい生活パターンを確立しなければ、ずるずるといってしまいそうで怖い感じがしている。
なんでそんなことを考えたのかというと、下記の本が出版されたから(上巻のみ下記に)。

ピンチョンの小説がすべて新訳で読むことができるらしい。しかも第一弾は柴田元幸訳。これは小説好きとしては読まねばならぬ、とは思うものの、こういう難物を読みこなすには体力も時間も必要で、果たして今の自分にそこまでの余裕があるかと言えばちょっと怪しいので躊躇している。
トマス・ピンチョンアメリカの現代作家で、その素性についてはほとんど知られていないという謎の作家である。この時代、小説家にも作品以外の魅力が必要で、完全にタレント化している感じもあるが、そういう中で、彼については顔さえわかっていない。あのニカッと笑った著者写真を入れることの多いアメリカでは珍しいことであろう。作品もその孤高を守る作家のものらしく、現実と幻想とが交錯する特徴的なものとなっている。作品の書き方は決して難しいことはないのだが、読みながら考え込まされることが多い。なかなか読み進めるのは大変なのであるが、そこがまた面白くもある。言葉で作り上げられる世界の謎を読み解く快感を味合うことができ、映像では表現できない小説ならでは面白さを存分に味わうことができる。小説好きにはたまらない作品なのだ。これまでにもサンリオ文庫国書刊行会ちくま文庫から翻訳が出ていたのだが、そういう作家でもあるため、改めて新訳で作品を(しかも全作品!)読むことができるというのはとても楽しみであるである。上下巻で7千円を超えるという値段も決して高くはない。以前なら、迷わずに買い込んで、早速、読み始めただろうが、なかなか決心がつかない。なぜか。
果たして読めるのか、自信がないのである。「読むべき本」だけも相当にたまってしまっている中、「読みたい本」でしかも時間も労力もかかることが分かっているものにとりかかる決心がつかない。ピンチョンの場合、ほかの作品との併読は避けたいこともあり、おそらく一ヶ月はこの作品だけに集中しそうでもある。そんなこともあり、う〜む、と考え込んだままになっている。
春の日本英文学会のシンポジウムの中で、もっと範囲を広げて論じるとよかったのではないかと言ってくださった質問者に応えて(確かに的を射たご指摘だった)、パネリストのひとりが「私には時間がない。読みたいものだけを読んでいきたい」とおっしゃった。その潔さには敬服したが、その意味はよくわかる。妙な言い方であるが、予定でいけば、人生の半分近くが終わってしまった年齢になると、これから先に読むことができる冊数が限られていることを痛感するようになった。院生の頃のように、あれもこれもとはいかなくなる。「読むべき本」をこなしながら、さらにいかに「読みたい本」を読んでいくのか、それが大きな課題になってきた。手当たり次第に現代思想や哲学の本にも手を出していた時期もあったが、やっぱり小説読みとしては、これからは作品を中心に読んでいきたい。読んでいない面白いものは無限にあるのだから。だったら、きっと、ピンチョンもそのうち読み始めているんだろうなあ。