【小説】近未来は「現実」となったか

生活している場合はもちろん、通勤・通学の途中などで通りがかるだけでも、ここ数日の横浜には何だか物騒な感じを覚えてしまうのではないか。窮屈な、と言っていいかもしれない。横浜がAPECの会場になっているからだ。駅のコイン・ロッカーやごみ箱は使用できない。電車のアナウンスでは、ゴミや新聞紙を放置すると危険物と間違えられることもあるので持ち帰るように、と注意する放送が繰り返される(場合によっては、撤去作業のために電車を止める場合もあるという)。そして、やたらに目につくのがたくさんの警察官の人たち。
そして、今日、オバマ大統領が鎌倉の大仏見物にやって来るというので、観光客だけがあふれかえる日曜日の鎌倉にもやたらに警察官の姿が目につく。少しでも疑わしい車は、わざわざ止められて中をチェックされていた。仕事だから大変だなあと同情しながらも、警備とはいえ、街中に警察官の制服ばかりが目につくようになると、何だか落ち着かない「不安」な感じになるのは仕方ない。きっと、目立たない私服警察官もたくさん歩いているんだろう。のんびりした街が何となくいつもと雰囲気が違う。
そういえば、院生の頃だったか、当時のレーガン大統領が国会で演説するという日に、まったくそのことを知らずに呑気にも国会図書館に出かけたことがあった。永田町を歩いていると、突然、二人の警察官に呼び止められて、カバンの中身を見せるように言われた。二人はにこにこしてはいたが、断固たる態度だったこともあり、しぶしぶカバンの中味を確認させた。初めての職務質問の経験にドキドキしながら、「何かあったんですか?」と尋ねたら、「今日、アメリカの偉い人がやって来るんだよ」と、まるで自分が小学生ではないかと思えるような答えを受けたことをよく覚えている。うまく言えないが、普段は感じない「威圧感」をこの二人の警察官から覚えたことが忘れられない。
警察官の制服姿がやたらに目につく鎌倉を歩いていると、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』を思い出した。読むんだったら、やっぱり下記の新訳が読みやすい。村上春樹の新作に合わせるために、なんと1ヶ月こもり切りで訳したということ。さすがの高橋先生も殺気立っていた、なんて裏話も聞いた。でも翻訳は素晴らしく読みやすい。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

1948年に書かれたこの作品が、当時から想像された近未来の世界を想像したものであることはよく知られているので今さら説明することはないかもしれない。〈ビッグ・ブラザー〉によって率いられる党が支配する全体主義的社会が描かれる。主人公は、役所で歴史を書き替える仕事に従事しているが、完全な管理社会の窮屈さ不満を抱いていた。そんな折、知り合った女性と恋に落ち、反政府のレジスタンス活動にかかわるようになっていく、という政治小説
前にも取り上げた『動物農場』と同じく、この作品もソ連全体主義体制を批判したものとされるが、今となっては、そういう枠組みだけで読むのはもったいない。現在の社会に対する批判としても十分に読むことができるから。もちろん、今の日本で盗撮や盗聴は基本的に犯罪であるが、そのような直接的な方法でではなく、もっとわかりにくい形で我々の日常生活が管理されていることに気づかなくてはいけない。
例えば、パソコンや携帯のメール。誰が、誰に、何を言っているのかはずっと記録され、後から他人が確認することができる。どんなサイトを閲覧しているのかも、パソコンやサーバーを調べればすぐにわかる。あるいはSuicaPasmo。言うまでもなく、このカードを使うことによって、誰が、いつ、どこへ行ったのかをたどることができる。高速道路のETCも同じこと。ATMでのキャッシュカードの使用記録、通販の顧客リストやクレジット・カードの明細を使えば、その人の嗜好や趣味を知ることができる…。どんな本を買っているのかがわかれば、その人の考えていることの大まかを理解することができるのだ。そう考えていくと、いわゆる便利だと思われる道具からは、実は相当な個人情報を得ることができ、その気になれば、これらを組み合わせることで、ある人物の生活から思想までを知ることができるのだ。
これに加え、治安維持のために街中に設置されている監視カメラ。我々がその存在を知らなければ、それは盗撮と同じことではないか。確かに、カメラを設置することに犯罪の抑止効果があり、起こってしまった事件の犯人逮捕に役立つ情報を提供してくれることはよくわかる。しかし、その便利さの半面、我々の日常生活も同時に記録されているのだ。
そう考えると、現在の我々はプライベートのかなりの部分を剥ぎとられ、ほぼ丸裸の状態で生活していることがよくわかってくる。オーウェルの描いた近未来は、〈ビッグ・ブラザー〉の監視カメラのような「ハード」さはないが、パソコンやカードを使うなど、実はそうとは見えない「ソフト」な方法によって徹底的に管理されているのである。これはオーウェルの描く「1984年」の世界と同じではないのか。
そんなことを考えながら本作を読んでいくと、ソ連のような独裁国家(まだまだ世界中には同じような国はたくさんあるが)でなくとも、現在も個人と社会の間には深刻な問題をはらんでいることがわかってくる。オーウェルのすごさが実感できる瞬間である。