【小説】「ささやかな日々、平凡な仕事」

年末、指導教授のお宅でオーウェルの読書会があった。今回は、小説としては『ビルマの日々』に続く第2作目の『牧師の娘』。私がレポーター。

Modern Classics Clergymans Daughter (Penguin Modern Classics)

Modern Classics Clergymans Daughter (Penguin Modern Classics)

1933年に出版されたこの作品の主人公は、タイトルにもなっている28歳の教区牧師の未婚の娘。母親を亡くし、父親と二人暮らし。今回、簡単なレジメを作ったので、折角なので、ちょっと長くなりますが、それを貼り付けておきます。物語の理解のご参考に。
【Chapter 1】Knype Hillの教区での生活: Dorothyと父親の教区での日常生活が描かれる。無責任で現実的対応能力のない(借金についても無頓着)自己中心的な父親の世話をしながら、聖餐式・教区のグループや人びとの世話・行事の準備などに追われながら日々の生活を送っている。心が揺らぐことがあると自分を痛めつけるなど、牧師の娘らしく、信仰心を重んじている。何か彼女の住む町は2,000人ほどの人口で、お互いに顔見知りの規模であるため、ゴシップも豊富。その一方、隣家の男性Mr. Warburtonは彼女に興味があるのか、巧妙に騙してまで誘惑を仕掛けてくるが、Dorothyは応じない。ある夜、彼の家に招かれた帰り、自宅前で無理に抱きしめられたところをゴシップ好きのMrs. Semprillに目撃される。帰宅が遅くなったこともあり、温室を改良した作業場で寄付集めの演劇のための衣裳の準備を遅くまでしていた。
【Chapter 2】London(記憶喪失)→Kentのホップ畑(記憶回復): ある日、自分がボロボロになってロンドンにいることに気づくが、自分が誰なのかなぜそこにいるのかを含め、一切の記憶がなくなっている。彼女の小銭目当てに声をかけてきたカップルと一人の男(Nobby)についてKentのホップ畑で働きに行くことになる。徒歩中心の道中、物乞いをしたり、Nobbyが盗んできたもので飢えをしのぎながら、野宿をしてKentへと向かう。ところが、なかなか仕事が見つからず、カップルは二人の荷物を持って逃げ出したために一文無しになったところ、幸運にもある農場で仕事が見つかり働き始める。そこには、ジプシーやロンドンからの季節労働者など多くの人たちが働いており、仕事は楽ではなかったが、人びとは親切でそれなりの生活を送ることができる。しかし、あるとき、Nobbyが窃盗で逮捕されてしまう。その後、彼がくれた新聞記事から自分のことを思い出し、彼女が失踪したことについてはMrs. Semprillの証言から、彼女がMr. Warburtonと駆け落ちをしたとしてゴシップ紙などをにぎわす事件の渦中にじぶんがいることもわかる。自分の素性がわかった後の労働者としての生活がつらいものに感じられ、父親に助けを求める手紙を出すが、返事は来ない。ホップ畑での仕事期間が終わった後は、ようやくロンドンで見つけた安宿に落ち着くものの、お金が尽きてしまうと野宿生活を強いられることになる。
【Chapter 3】Trafalgar Squareでの浮浪者生活(演劇のシナリオ形式): Dorothyは下働きの仕事を探すが、自分のアクセントがそれを聞く人たちをギョッとさせ、それゆえにその階級の仕事を得ることができない。とうとうLondonでの浮浪者生活を強いられ、物乞いなどをして飢えをしのぐ。他人の慈悲を乞う生活は、記憶を取り戻してからは屈辱的なものと感じられる。そそて、浮浪者の吹き溜まりであるTrafalgar Squareに流れ着き、そこで他の人たちと寒さと飢えをしのぐが、とうとう警察に保護されてしまう。
【Chapter 4】Ringwood House Academyでの教師生活: Dorothyの父親に娘を助けるつもりがまったくなかったわけではなく、ただ実際に行動に移すのが遅かったことが大きい。些細なことで仲違いをしていた親戚の准男爵Sir Thomasに助力を求め、このDorothyの従兄は自分に迷惑がかかることを嫌って彼女を助けることにした。そして、Mrs. Creevyの経営する私塾に働き口を紹介する。教師経験のなかった彼女であったが、無味乾燥なこれまでの教育方針を改革していくことによって生徒たちが生き生きすることに生き甲斐を感じもする。しかし、『マクベス』の中の“womb”という単語を授業で使ったことがきっかけとなり、生徒の保護者たちがより実践的なことを学ばせるようにと、彼女に教育方針の転換を求めて訴えてくる。仕事を続けるためにはこれに従わざるを得ず、生徒たちは失望したものの、仕方なくもとも無味乾燥な教育方針に戻す。しかしながら、結果的には、吝嗇家のMrs. Creevyの経営方針から仕事を失うことになる。その間、Mr. Warburtonから能天気な手紙が来るが、無視する。
【Chapter 5】いよいよ帰宅: Mrs. Creevyの私塾を出たところで、Mr. Warburtonがタクシーで迎えに来る。Mrs. Smprillが名誉棄損で訴えられ、信用と立場を失くした彼女が転居したため、結果的にDorothyの地位も回復したという。彼に連れられてKnype Hillの自宅へと戻ることになったが、途中、彼からプロポーズされる。その話の中で、このままでは彼女は老嬢になってしまうと指摘されたことをきっかけに彼女の思いがそちらに流れてしまい一時的に求婚を受けてしまいそうになるが、正気に戻ると即座にこれを拒否する。そして、信仰は失ったものの、信仰の枠組みは失っていないとして、「牧師の娘」としての務めを果たしながらの生活を続けることにすると宣言する。牧師館に戻った彼女は、心の中では大きな変化を経験しながらも、失踪事件前と変わらぬ生活を送るようになる。
この物語は、つまり、日常の緊張感に耐えられなくなった主人公がストレスから記憶喪失になって失踪し、その後、記憶を取り戻し、ホームレス生活を送り、ほかに教師生活などのさまざまな経験を通し、最後には表題に引用した「ささやかな日々、平凡な仕事」こそが大事なのであるという悟りに至るというもの。主人公の精神的な変化を描いたものであるが、気負いのあった彼女が結末では一種の悟りに至っているところなど、先のブログに書いたジョージ・ハリスンにもつながるのもしれない。『古今聖歌集』の中の歌詞の一節からの引用というこの言葉、そして彼女の心境も、「わかるなぁ」という感じ。
この作品では、オーウェルにして珍しく、ジョイスの『ユリシーズ』に影響を受けたらしい演劇のシナリオ形式の章を入れるなど、実験的な試みもしている。あと、記憶喪失のエピソードなど、フロイトなどの精神分析の影響を受けていることもわかります。いろいろと論じるべき点もあると思いますが、個人的には、悟りの境地に至った後の主人公の穏やかさが印象的で、これも好きな作品となった。あと、学校での授業の場面など、オーウェルの体験にも基づいているらしく、生徒の反応などが妙にリアルに描かれていて、何だか居心地が悪くなったくらい。
前作も感じたことだが、悲惨な生活の状態を描きながら、オーウェルの書き方にどこかユーモラスなところがあって、主人公の語り口にも喜劇的な感じが強いように思える(読書会でそうコメントしたけど、あまり同調の反応なし。私の思い込みなだけかも)。極端に悲惨なものは喜劇となる、オーウェルの作品を読むと、そんな感じもしてきます。
翻訳は下記のものがあります。20世紀初頭のミドル・クラスの未婚女性の生活ぶりを知り、考えてみるには格好の素材になりそうな作品です。そんな点に興味のある人は、ぜひ、読んでみてください。