【小説】本物のダンディとは?

新人物往来社という出版社から、なかなか興味深い小説にシリーズが刊行されている。「20世紀イギリス小説 個性派セレクション」と題されたこのシリーズ、すでに5冊中の1〜3冊目が刊行され、かの柴田元幸先生も「このシリーズ、絶対いいと思います!」と帯に賛辞を寄せている。確かに面白そう。というか、マーガリータ・ラスキ、シルヴィア・T・ウォーナー、マックス・ビアボーム、パトリック・ハミルトン、イーヴリン・ウォーと並んだ作家について、ウォー以外は小説好きにもあまり知られていないのではないのではないだろうか。私の場合、ウォーとビアボームは読んだこともあったものの、ラスキはオースティンの研究書の著者ということで名前は知っていただけで、小説を書いていたとは知らなかった。また、その他の二人については、恥ずかしながら、名前さえ知らなかった…。「いったい、どこから見つけてくるの?」というのが、このリストを眺めたときの第一印象。さすが、奈良女子大学横山茂雄先生と京都大学の佐々木徹先生という、小説読みのお二人の責任編集だけあって一筋縄ではいかない。このシリーズの作品については追々ひとつずつ紹介していきます。今回は、送ってもらったマックス・ビアボームの『ズリイカ・ドブソン』について。先の佐々木先生による翻訳。

ズリイカ・ドブソン (20世紀イギリス小説個性派セレクション)

ズリイカ・ドブソン (20世紀イギリス小説個性派セレクション)

この小説、ある意味で、シリアスに読むと馬鹿馬鹿しい感じがする、19世紀末のイギリス的な諷刺を集約したような小説。主人公は、タイトル名の魅力的な女性奇術師。彼女がたまたまオックスフォードにいる祖父(あるコレッジの学寮長)を訪問したことから、この静かな大学町で大騒動が起こることになる。男子学生すべてが彼女に恋をするのだ。そして、この大学をリードするある貴族の青年が彼女に恋をし、そして報われないことがわかるとダンディズムから死ぬことを宣言する。愛に殉ずる、という訳。主人公はそのことに酔いしれて最高の気分を味うものの、相手の男性はこのヒロイズムを完結させるために、さまざまな逡巡を経て、結局、ボートレースの日に川に身を投げて約束通りに自死してしまう。そして、彼を範としてきた他の学生たちも次々に身を投げ溺れ死ぬことに。主人公は、こうして自分のために大勢の若者が命を投げ出したことに恍惚となるものの、直後、そのことは彼女の賛美者を失ってしまうことを意味することでもあることに気づくこととなる。一時は尼僧になることも決意した主人公がオックスフォードを去るところで物語は終わる。
こうして物語をまとめてみると、「どこが面白いの?」という感じかもしれないが、ウォーにもよく似た、いわゆるイギリスらしい諷刺によって随所にクスッと笑ってしまうような場面が次々に出てくる。例えば、「ジャンタ」という貴族の青年の所属するクラブのメンバー選び。ここは選抜の基準が厳しい伝統のクラブであり、一時期はメンバーが彼ひとりになったことがあった。それでも、正規の手続きによってメンバーの承認をする場面。
「ディナーの後で、クラブの召使がマホガニーのテーブルの上に使い古した『候補者名簿』と投票箱を置き、静かに退出する。公爵は咳払いをし、『ドーセット公爵により推薦され、ドーセット公爵により支持された○○学寮の○○氏』と声に出して言う。投票箱の引き出しを開けてみると、そこには彼が入れた黒い玉が入っている。かくして、ヒルズ・アンド・ソーンダーズ写真館によって撮影されたその年の『グループ写真』には、公爵一人しか写っていなかった。」
自分で推薦し、自分がその推薦を承認し、そして自分でそれを否決する…。まさにナンセンスではあるが、これはクラブの閉鎖性を皮肉ったものとしては十分であろう。ただし、これはその世界の人間であるマックスボームが皮肉るから笑えるのであって、そうではない人間が同じことを書くと、ちょっとやっかみ気味に読めてしまうのではないだろうか。同様の滑稽さは随所に出てきて、そもそもこの公爵が愛ゆえの死に殉ずることを宣言し、さまざまに言い訳をしながらそれを避けようとするものの、結局、報われない愛を完遂させるために命を捨てるという物語そのものが、世紀末ダンディズムに対する痛烈な皮肉となっている。これも本物のダンディでもあった作者でなければ、単なる馬鹿馬鹿しい物語というだけで終わってしまうところだろう。
あと、この作品では随所に語り手が顔を出し、いろいろなことを説明する。18世紀小説の「全知全能の語り手」ではなく、むしろ20世紀の実験小説(例えば、ジョン・ファウルズの『フランス軍中尉の女』)のメタフィクション的な語り手のを思い出させるものとなっている。ファイルズほど洗練されてはいなものの、この作品の語り手も十分に興味深い。
しかしながら、私が気になったのは、訳者も「訳者解説」で書いているように、ノウクスという、外見もダメ、性格も臆病で優柔不断、そしてそのためにオックスフォードの学生のでただひとりの生き残りとなってしまった人物(結局、最後には自死するんだけど、それも情けない理由から)。この人物、登場の仕方からはじまり、すべて公爵と対照的な反ダンディズムを具現するような存在となっている。私は、多分、紆余曲折があって、このダメ人間と主人公が結ばれるのでは…なんて素直に考えたものの、それは外れていました。
19世紀末のイギリスの文学といえばオスカー・ワイルドにオーブリー・ビアズリーばかりが目立つが、そんなポップ・スターではなく、本当の意味で世紀末的だったのはマックスボームだったのかもしれない、そんなことを感じさせてくれる小説だったと思う。ウルフ、T.S.エリオット、ヘミングウェイ、グリーン、ウォーなどに彼が崇拝されていたことに触れ、「訳者解説」で次のように書かれている。「それだけの文人であるのに、わが国にあってはビアボームの知名度はきわめて低い。この由々しき事態はぜひとも改善されねばならない。」まさにその通り。
それにしても、まさかマックスボームの小説を日本語で読めるとは思わなかった。以前に英語で読んだときにわからなかった点がすっかり解読できた感じもして、皮肉の強い諷刺モノは、まずはすぐれた翻訳から読むに限るという思いを強くした。お勧め。