【エッセイ】「永遠の少年少女のための文学案内」

今年度の授業ではディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』をよく取り上げたことや、ユーリカ・プレスから出た復刻「子どもの文化史」の日本語解説を書いたこともあって、「子ども」は今年度の私の個人的なテーマでもあった。ただ、この「子ども」というのは、今の私たちはごく普通にある種のイメージを持つが、実は、そんな考え方に至るようになったのは18から19の世紀の変わり目のあたりという、意外に最近のこと。じゃあ、それまではどうだったのかというと、まだ十分に成長していていないだけの「小さな大人」と考えられていた。この「大人/子供」の境目を区別にしない考え方は、今とはまったく違う接し方で「子ども」を扱っていたことになる。大人に混じっての飲酒・喫煙は当たり前、今だとPTAの人たちが顔をしかめるような猥談なども子どもたちの前で平気でやっていたという。子どもの見方の変遷について興味のある人は、まずは必ず参考文献に挙がるフィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』を読んでみるといい。

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

野崎歓氏による『子どもたちは知っている』(春秋社)は、そんな肩ひじを張って読むようなものではなく、副題「永遠の少年少女のための文学案内」にあるように、文学作品に登場する「子どもたち」に注目し、そこからそれぞれのエッセイをまとめていったもの。私には、野崎氏といえば、東大の仏文学者であり、特にミシェル・ウェルベックの過激な小説『素粒子』(ちくま文庫)の翻訳者としてのイメージが強く、こうした文章を読んで、何だか意外な感じもして、「ああ、お父さんなんだ」とほっとした。野崎氏には『赤ちゃん教育』(講談社文庫)という子育て体験の本もあることがわかり、とんがった学者のイメージとは正反対の、自分の子どもの成長に一喜一憂する、というより、子どもを間近で観察することができることに素直に喜んでいる父親としての一面のあることがわかってくる。本書も、そんな野崎氏の想い溢れるものとなっている。それにしても印象的な表紙。
こどもたちは知っている―永遠の少年少女のための文学案内

こどもたちは知っている―永遠の少年少女のための文学案内

本書では、世界文学の中から印象的な「子ども」が登場する作品を気取らない語り口で紹介されていて、イギリス関係では、ディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』『デイヴィッド・コパフィールド』『骨董屋』やバーネットの『秘密の花園』などが紹介されている。「こどもたちは、大切な鍵を握っている。」という書き出しで始まるこの本は、いわゆる啓蒙的な教科書としてのブックガイドではなく、著者自身が「何ともナイーヴな文学再入門書」と書いているように、非常に個人的な本でもある。それだけに、授業の合間に語られる先生の面白い個人的な感想を聞いているような、なんだか得したような気分になってくる。
ディケンズの作品には読者の同情を一身に集めるような「子ども」がたびたび登場する。彼の子ども観がいわゆるロマン主義的なものに強い影響を受けていることは、松村昌家先生の『ディケンズとその時代』(研究社出版)の『オリヴァー・トゥイスト』を論じたところが詳しいのでそれを参考にしてもらうとして、現代になると、これとは正反対の子どものとらえ方をした作品も書かれるようになってくる。個人的に強烈な印象を持っているのは、ウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』。無人島に不時着した子どもたちが、「文明」から遠く隔てられたこの島で「野蛮」に堕していく姿は、理屈抜きのおぞましさがある。『蝿の王』は近いうちに読み直したいと思っているので、また改めて紹介したい。
「子どもって、そんなに純真?」と考えてしまわないわけでもないが、たまには「永遠の少年少女」になってしまって文学作品を読み直してみるのもいいんじゃないか、そんな気分にさせてくれる本。お勧め。