【音楽】サヴォイ・オペラについて

昔から音楽は好きで、タワー・レコードの宣伝コピー「No Music, No Life」そのものの生活を送ってきていて、ポップス、ロック、ジャス、クラシックなど、演歌を除くあらゆるジャンルのものを楽しんでいる。と言うか、「ながら族」なので、音楽を流しながら仕事や勉強をしている感じ。ただ、演歌と同じく苦手なのが、オペラやミュージカル。セリフが突然に歌に変わるミュージカルはもちろん、セリフがすべてが歌で語られるオペラにしても、どうも苦手である。もちろん、ここでとりあげるオペレッタも聴くことはほとんどない。文学的興味から、以前、ジョン・ゲイの『乞食オペラ』のCDを買ったこともあったけど、ほとんど聴かずに手放してしまった。オペラ好きのかつての同僚に言わせると、「オペラがわからないとは、本当の音楽がわかっていない‼」ということらしい。
そんな感じな私でさえも興味を持っているのが「サヴォイ・オペラ」。と言うのも、19世紀のイギリス文化についていろいろと読んでいると必ず出てくるのが、ギルバート(劇作家)とサリヴァン(音楽家)のコンビの名前。日本における「サヴォイ・オペラ」の文化研究については新井潤美さんがいろりろと書いていて、確か、『へそ曲がりの大英帝国』(平凡社新書)にもひとつの章が割いてあったはず。

へそ曲がりの大英帝国 (平凡社新書)

へそ曲がりの大英帝国 (平凡社新書)

新井さんは、以前、日本の劇団(でいいんでしょうか?)がイギリスでギルバート&サリヴァンの代表作『ミカド』を上演した際に、それに同行して講演をされたというし、今年の5月の日本英文学会の大会(@北九州市立大学)のシンポジウムでも「サヴォイ・オペラ」のお話をされることになっている。一度、ゆっくりとお話を伺いたいと思いつつ、いつも二人ともビールに溺れてしまうので、それも果たせていない。私にとって「サヴォイ・オペラ」とは、わかるような、わからないような、そんな感じのものとなっている。
そんなところへ、ディケンズフェローシップのMLで「サヴォイ・オペラ」についての下記の本の情報がまわってきて、そんなことで興味があったので、早速、購入して読んでみた。
サヴォイ・オペラへの招待 サムライ・ゲイシャを生んだもの(ブックレット新潟大学56)

サヴォイ・オペラへの招待 サムライ・ゲイシャを生んだもの(ブックレット新潟大学56)

新潟大学が出しているブックレットで、バックナンバーのタイトルや文体の感じでは、おそらく公開講座の講演をもとにまとめられたものだと思われる。それだけに、必要な情報はコンパクトにまとめられていて、スラスラと読むことができた。筆者はディケンジアン(ディケンズ研究者)でもあり、ヴィクトリア朝文化についての深い知識に支えられた入門的な読み物となっている。
知っているようで知らなかったこと、例えば、呼び名の由来。「このサヴォイという名称は、劇場が同名の宮殿の跡地に建てられたことに由来」(5頁)していて、後にホテルが併設されたという。その他、19世紀のイギリスの音楽状況、代表作の紹介、二人の確執などについても簡潔に触れられ、最後は、イギリスのナショナリズム高揚との関係について、「今日なおサヴォイ・オペラが英語圏の国々で上演されるとき、そこには観客のひそかな『イングリッシュネス/ブリティッシュネス』確認の欲望が秘められている」(67頁)と説明されている。70頁くらいの短いものだか、「サヴォイ・オペラ」について知りたいことをバランスよく教えてくれる格好の入門書である。
個人的に興味を持ったのは、第四章の初めのところで触れられた、現在のアメリカの上演劇団について説明されている個所。ここではニューイングランドについて触れられ、彼らにとっては19世紀後半に流行した「サヴォイ・オペラ」を鑑賞することができる「教養」を身につけているかどうかを示す絶好の機会になるという。そして、この点について次のように説明される。「彼らはアメリカ人であるにもかかわらず、現代のイギリス人たちにとってさえ理解しがたくなっているヴィクトリア朝について学習し、まるでサヴォイ・オペラ初演当時のイギリスのことを知っているかのように振る舞うことで、自らのルーツに対して忠誠を誓っているわけです。」(59頁)先のブログでも書きましたが、アメリカとイギリスがさまざまなレベルで密接につながっていることがよくわかる指摘である。
どうやら、19世紀ヴィクトリア朝の社会や文化を理解するためには「サヴォイ・オペラ」抜きで済ませる訳にはいかない様子。台本を読むだけでなく、音楽も聴いて、できれば舞台も観てみたいと思うようになってきました。どこかで演っていないでしょうか。