【講義本】アメリカ小説を読んでみよう!

最近、思うところが少しあって、アメリカの小説に関する本をいくつか買って読んでいる。それで何んとなくわかってきたのは、現在は、「イギリス」と「アメリカ」に便宜的に分けることが多いものの、そんなにうまくは仕分けすることができないのでは…ということ。ヘンリー・ジェイムズのような帰化した作家たちの所属の曖昧性について議論するまでもなく、通常、「イギリスの作家」「アメリカの作家」と分けられている人たちも、実際に作品を読んでみると、実ははっきりとした区別はできないのではないかという気がしてきた。例えば、個人的に好きなアメリカの作家のひとりであるナサニエル・ホーソーン。『緋文字』を読んでいると、何となくハーディの作品を思い出してしまうのは私だけだろうか。ただし、この「所属の曖昧性」も第1次世界大戦くらいまでで、「失われた世代」以後は、はっきりとイギリス小説とは違うものになっていく感じがする。イギリスとアメリカの小説を関連づけて見ていくと、意外な面白い視点があるのではないかという気もしていて、しばらく考えてみたいと思っている。そんなときに手に取ったのが柴田元幸先生の下記の本。

アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)

アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)

柴田元幸」というのはアメリカ小説の翻訳の有名なブランドのひとつであり、表紙や帯に記される名前の大きさが原作者よりも大きいとか、小説の翻訳には「柴田元幸推薦!」が絶大な推薦文となるとか、海外文学に興味のある人であれば誰でも知っているものと考えていた。ところが、結構、小説とかを読んでいる学生と話をしていて、「『シバタモトユキ』って誰ですか?」と、文字通り、カタカナの感じで、頭の中は「???」でいっぱいの様子で聞き返されたときには驚いた。でも、よくよく考えてみると、本を買うのはネットの通販で、実際に本屋に行かないのであれば、もしかしたら読書好きと言っても、書店の外国文学コーナーに溢れる「柴田元幸」の名前を知らないのも仕方ないのかも…と思い直した。パソコンでの「検索」の悪いところで、知りたい情報しか入手できないのであれば(電子辞書も同じことですね)。う〜む、という感じ。
本書は、以前に紹介したマイケル・スレイターのディケンズの本と同じく、テーマ別に作品を関連づけながら紹介していく。テーマは、「名前」「食べる」「幽霊の正体」「破滅」「建てる」「組織」「愛の伝達」「勤労」「親子」「ラジオ」の10項目。あらすじを詳細に書くことで作品を紹介するのではなく、各テーマに関連する作品からの引用を読ませることで読者に興味を惹かせる工夫がしてある。とても読ませる文章なので当然といえば当然であるが、引用される本をことごとく読みたくさせるような本である。
ただ、今の私が読みながら興味をもったのは、随所に触れられるアメリカ小説とイギリス(あるいはヨーロッパ)小説の違いをズバッとひと言で説明するところ。例えば、「建てる」の章の中にこんな風な説明がある。
「ヨーロッパ文学において人間と人間を隔てる基本的な線引き基準が、〈性差〉と〈階級〉であるとすれば、アメリカでは三つ目の要素として〈人種〉が加わる。」(83頁)
これは確かにうなづける指摘ではあるものの、20世紀末以降、アフリカやインド、香港や日本出身の作家たちが英語で作品を発表するようになったことから、「イギリス小説」→「英語圏小説」と呼び名が変わりつつある「イギリス」の小説においても「人種」は重要な要素になってきているように思われる。
その他、興味深い指摘としては、「破滅」について次のように説明される。
「西洋の古典悲劇のように人がヒュブリス(神々に対する不遜)を抱いたがゆえに破滅するのではなく、あるいは『ロミオとジュリエット』のようにしきたりと個人の欲求とが衝突したがゆえに破滅するのでもなく、アメリカでは誰でも富と成功を手にするチャンスがあるという理念を信じたがゆえに、人が破滅に追いやられる物語。」(56頁)
ここの「のようにしきたりと個人の欲求とが衝突したがゆえに破滅する」というのは、ハーディの悲劇的な諸作品などを読むと、まさにイギリスの小説の悲劇のパターンを見事に要約をしていることがわかってくる。ただ、これはイギリスに限ったものではなく、例えば、ホーソーンの『緋文字』にも当てはまることを考えると、冒頭の英米小説の近似性の証明とはならないであろうか。
一番強く「なるほど」と思ったのは、「建てる」の章の冒頭の「アメリカ文学には家を建てる話がよく出てくる」という指摘。「確かにそうかも」と思った次には、「イギリスの小説にはあまり家を建てる話は出て来ないなあ」と思ってしまう。イギリス小説には、例えば、ジェイン・オースティンの『マンスフィールド・パーク』やE・M・フォースターの『ハワーズ・エンド』のようにお屋敷をタイトルに冠する作品も多いが、ほとんどが「家を建てる」のではなく、「家を継承する」物語となっている。成功して家を建てる話というのはあまり記憶がない。『ロビンソン・クルーソー』は無人島で家を建てるが、あれは「家」ではなく「砦」。こうして英米を比較してみると、「家」をめぐる考え方の違いも見えてきて面白い。「家」とは継承するものであると考える伝統あるイギリスの社会と、「家」とは新しく建てるものであると考える新しいアメリカ、ということになるのであろうか。伝統を継承するのか、伝統を創り出すのか、その違いは大きい。
個人的には、決定的に「アメリカ」の小説だと思うのは、マーク・トウェインの『ハックルべりー・フィンの冒険』。あのゆったりと流れるミシシッピ川に漂う筏の上での至福の生活ぶりは、同じように自然を描くにしても、イギリスの小説にはない世界である。何だか読み直したくなって、トウェインの一連の作品を買い直しているところ。なかなか時間はとれないものの、読むのを楽しみにしている。
イギリスの小説を読んでいるからこそ、アメリカの小説も読まなくてはけない、そんなふうに思わせる本であった。入門書としては少し難しいかもしれないが、小説を読むことの醍醐味を実感することのできるものである。