【小説】「わたし」は誰なのか?

久しぶりに衝撃的な作品を読んだ気分。頭をガーンとぶたれたような衝撃ではなくて、じわじわと頭の中を侵食されていくような静かな衝撃。カズオ・イシグロの小説は、第3作目の『日の名残り』まではリアルタイムで翻訳が出る前に読んでいたものの、そのあたりで「もういいや・・」という感じになって、その後は追っていなかった。今回読んだのは次の作品。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

なぜ、久しぶりにイシグロを読んでみようと思ったのかというと、映画化されたこと、そして『プライドと偏見』などにも出演しているキーラ・ナイトレイが出ていることがあったからかも。「面白いなあ」と思うのはワーキング・タイトルをはじめとするイギリスの映画が多いけど、そのいくつかに出ている女優さんだけに、彼女の出る映画はとりあえず観てみたいと思うことが多い。今回は映画よりも先に原作を読んでみようと思って手に取った。
しかし、この小説を紹介するのは非常に難しい。文庫版の訳者の「あとがき」の中にも、この作品は「ミステリではないが、やはり謎めいた要素があって、雰囲気も微妙な違和感に満ちている。新聞・雑誌で本書を紹介してくださった批評家の方々も、『どこまで……』という点で苦労されたと聞いている」と書いているように、ネタばらしをしないでこの作品を紹介するのは本当に難しい。ただ、途中で「微妙な違和感」の理由はあっけなく明かされはするものの、勘の鋭い人であれば、登場人物名が「キャッシー・K」のように「ファーストネーム+イニシャル」になっていること、「介護人」や「提供者」といった言葉などから、なんとなく想像がつくのかもしれない。
ただ、この作品のすごいところは、その謎ときがメインなプロットではなく、謎が明かされた後も、読者は興味深く読み続けることができるというところではないか。これが「彼ら」の物語であって「私たち」の物語でないことが「微妙な違和感」を常に感じさせる理由だろうが、そうであっても、十分に感情移入することはできるだろう。なぜなら、「彼ら」が求めているものも、「私たち」が常に意識せざるを得ないこと、つまり「わたしとは誰なのか?」という単純ながら簡単には答えの見つからない問いであるからだ。
それにしても、この読ませる語りの力はなんだろう。奇をてらったような仕掛けがあるわけでもなく、読者をぐいぐいと引っ張っていくような力強さがあるわけでもない。あることが運命づけられた語り手の女性の口調には、すべてを達観したような静謐さがある。それにもかかわらず、声高に語られないだけに、彼女が語る物語にどんどん引きこまれていく感じがするようだ。最近は19世紀の小説を読むことが多く、久しぶりに現代の作品を読んだことにも新鮮さがあるのかもしれないが、ストーリーテラーとしてのイシグロの力量を痛感させられるすぐれた作品だと思う。面白い現代小説のひとつの典型ではないか。
余談であるが、個人的には、クローマをはじめとするノーフォーク州が舞台になっているらしいことも私に親近感をもたせる理由。ケンブリッジに滞在していたとき、ノーリッジやキングス・リンをはじめとして、このあたりには時どきドライブに出かけることがあったからである。主人公が車を走らせる風景も、子どもたちの言葉遊びで「落とし物預け所」というイメージがつけられたノーフォーク州も、作品の描写を読んでいると手に取るようによくわかった。東のはずれ、という感じ。そういえば、イシグロは、カンタベリーにあるケント大学を卒業した後、ノーリッジにあるイースト・アングリア大学の大学院の創作科で小説の書き方を学んだということを思い出す。きっと、イシグロもこのあたりをよくドライブをしていたのではないだろうか。おそらく、普通の観光ではあまり立ち寄ることがないのかもしれないけど、ノーリッジなどの街もそうだが、グレート・ヤーマスや作品の舞台にもなったクローマといった海辺の町は、少しさみしい感じもするが、それだけに魅力的だ。
しばらく、イシグロの作品を続けて読みたくなった。そう思わせる作品。お勧め。