【雑考】日々の生活を考えてみる

ようやく暖かくなってきたせいか、鎌倉にも桜が咲き、観光客や車の数も増えてきたようだ。街に人が戻ってきた感じがする。ただ、日が暮れると、以前よりも通りが暗い。節電のため、店のネオンだけでなく、多くの街灯が消されているからだ。福島の原子力発電所の大変な状況が続いているのは心配だが、当面は計画停電もなくなり、暗い夜道を除いては日常生活が戻ってきたように思える。
初めて計画停電というものを経験することになったが、いかに自分たちの生活の大部分を電気に頼っていたのかがよくわかる。うちはオール電化ではないので停電中もガスは使えるが、結局、ガスレンジ以外のものはすべて電気で起動するものになっているので使えなかったことがわかった。また、特に夜間の停電だと、その間、本当に何もできなくなってしまう。本も読めなければ、暗闇で話をするのも何なので、結局、家族でゴロゴロするだけだった。電気がないと多くのことができなくなってしまうのが今の私たちの生活なのであろう。そうそう、パソコンも充電が切れると使えなくなってしまう。
そんな中、原子力発電や、それを推進した政府や東京電力に対する風当たりが強くなっている。個人的には、原発の近くに暮らす人たちがそのような発言をするのは心情的によくわかるが、そうではなく、原発で作られた電気を消費するだけの立場の人間がそんなことを言い始めるのには大きく違和感を覚える。24時間営業のコンビニを利用し、飲んだ後に深夜までカラオケを楽しみ、テレビをつけると深夜まで番組を楽しむことができる。暑くなれば冷房をつけ、寒ければ暖房をつける。「不夜城」というのは歓楽街を意味する比喩として使われることが多いが、私たちの現代の生活そのものがすっかり「不夜城」と化しているように思われる。
それが快適な生活であることは確かだが、そんな生活を支えているのが「電気」なのである。そして、その多くの部分を原発に頼らなければいけなくなったという現実がある。そんな生活を求めたのが私たちであり、政府や東京電力はそんな私たちの欲求(「欲望」と言ってもいいかもしれない)をかなえるために原子力発電政策を推進させてきたと言えるのではないだろうか(「鶏と卵のどちらが先か」の議論のように、どっちが先なのかを決めるのは難しいけど)。そうであれば、そんな生活を無批判に享受していた私たちに原発を批判することができるのだろうか、と考え込んでしまう。言いたいのは、もちろん安全性を無視して推進しても仕方がないということではなく、私たちの生活そのものを考え直さないと、原発のない世の中など実現するわけがないということ。政府や東京電力を批判する前に、自分たちの生活パターンを考え直すことが必要なのではないか。
最近、詩人の茨木のり子の次のような本を読んだ。他人の書斎や仕事場、そしてそこに置かれている机や本棚などを見るのが好きで、特に作家や学者の記事などがあったら読むことが多い。今回も、たまたまネットの検索で引っ掛かって買ってみた。

茨木のり子の家

茨木のり子の家

凝った造りの家なので、建物そのものも魅力的であるが(例えば、玄関の扉ひとつとってもいい感じ)、何よりもいい感じなのは、落ち着いた雰囲気が家の隅々までいきわたっていること。まさに静寂が支配する空間。住む家や暮らす部屋を見れば住人がわかるというが、この詩人の書くものも含め、遺された家がすべてを語ってているようだ。何がその「静寂」を生み出しているのかを考えてみると、部屋の中に置かれているもの、テーブルや椅子などの家具、ラジオ、本棚、そして文房具などが、自分の世代には懐かしい感じのものばかりであることに気がついた。2006年に亡くなったというが、部屋の中の様子からは、もっと以前に時間が止まってしまったような感じを受ける。
例えば、書斎を写した一枚の写真。そこにはパソコンもなければ、電子辞書などもない。たくさんの本が並べられた書棚、窓の上の壁にはピアニストの写真、そして机や脇机の上には鉛筆立てや国語辞典。余計なものはなく、その場に必要なものだけがある、という感じ。今から20年くらい前の、自分が大学院の学生だった頃の下宿の部屋が懐かしく思い出させれるような気持ちになってくる(もちろん、こんなに片付いてはなく、もっと雑然としていたけど)。
この本には茨木のり子の詩もいくつか載せられていて、そんな中に「時代おくれ」という作品がある。

車がない/ワープロがない/ビデオデッキがない/ファクスがない/パソコン/インターネット/見たこともない/けれど格別支障もない
そんなに情報集めてどうするの/そんなに急いでどうするの/頭はからっぽのまま

できあいの「思想」「宗教」「学問」やいかなる「権威」によりかかることなく生きることを学んだというこの詩人であれば、この言葉には開き直りや焦燥感もなく、かといって自分の生活を誇るような奢りもない。ただ、そのままの気持ちが表現されているように響いてくる。今の私たちが一番学ぶべきものがここにあるのではないだろうか。自分にとって本当に必要なものだけを身のまわりに置き、そしてそれらだけを維持するためにだけ生活していくこと。本当にそれは必要なものなの? そんなことを考えた。