【小説】モンスターとは誰なのか?

イギリス小説を読む授業では、「イギリス小説のモンスターたち」というタイトルで、前期にはメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』とブラム・ストーカーの『ドラキュラ』を読むことにしています。最終的には、「異人論」などを援用しながら、異質なものを排除する共同体のあり方について考えよう、というのが目的なのですが、ようやく、授業でも『フランケンシュタイン』を読み終わることができました。とびとびでしたが。まずはその感想をまとめておきたいと思います。
フランケンシュタイン』といえば、怪物=モンスターの印象が強いのですが、それは怪優ボリス・カーロフのイメージがあまりにも強いからでしょう。この作品を扱うときには、毎回、「フランケンシュタインというのは怪物の名前ではなく、それを作った青年の名前だよ」というところから話を始めることになります。そうです、「現代のプロメテウス」という副題が付けられたこの作品の主人公は、本来であれば、怪物を作ったヴィクター・フランケンシュタインのはずなのです。つまり、新たに生命を創造するという神の領域に踏み込んだがために迎えてしまったヴィクターの悲劇が物語の中心にあるべきで、怪物を創り出したことで親しい者たちを失い、そして自らも追い詰められていって、表面上はきちんとそのような体裁になっています。でも、印象に残るのは主人公であるはずのヴィクターではなく、むしろ悪役であるはずの怪物であること、それも、怪物に対して同情的になってしまう読者も多いのではないでしょうか。
今回、改めて読み直してみて、私もやっぱりその感を強めることになりました。授業の準備の中で細かに読んでいくと、いくつかの言葉が頻繁に使われていることがわかってきます。例えば、"weep"や"tears"といった「泣く」行為に関連するもの、それから、"sympathy"をはじめとする「共感」を意味するもの、これらの言葉が頻出します。それらをつなぎ合わせていくと、この作品には、男性が泣く場面が異常なくらいに多いことと、いかに怪物が他者の共感を求めながらもそれが報われずに屈折していくさまがリアルに描かれていることがわかってきます。
考えてみると、イギリス小説の中で、男性キャラクターが「泣く」作品というのは少ないような気がします(←こう書いておいて、自分たちで訳したヘンリー・マッケンジーの『感情の人』を忘れていました。感傷小説には「泣く」感傷過多の人物が登場します)。パッと思いつく作品はないのですが、もしかしたらトマス・ハーディの『日陰者ジュード』のジュードが泣いていたかもしれませんが(記憶違いだったらすみません。近いうちに読み直そうと思います)、明らかに、この作品の登場人物たちとは違う泣き方でしょう。ロマン派の影響だといえばそうなのだろうと思いますが、もっと考えてみると面白い視点が見えてくるような気がします。
この作品を読む中で私自身が「共感」を覚えるのは、ヴィクターではなく(私には無責任極まりない利己主義者の権化に見えます)、絵に描いたような理想的女性であるエリザベスでもなく、やっぱり怪物なのです。受講生と話をすると、「モンスターは本当にかわいそう」という意見が圧倒的に多く、もしかしたら、授業そのものがその方向で流れてしまったのではないか、もしそうだったら、ちょっと失敗したなあ、と思っています。というのの、この作品の語りは複雑なだけではなく、非常に巧妙で、ウォルトン船長、ヴィクター、怪物のいずれも十分に信じることができなくなるように工夫してあるのです。つまり、誰の話を信じるにしても、多少とも割り引いて考えなくてはいけない、ということです。ヴィクターはある意味で正直なので、語りを通して自分の欺瞞性を暴露してしまっていることはすぐにわかるし、ウォルトン船長の熱狂に夢するような語りもまた十分に真実ではないことはすぐにわかります。そして、怪物の語りもまた、彼以外の誰もが見ていないことを語っているだけに、どうかな、と思わされるところも多々あります。そもそも、ヴィクターは、「あいつは口がうまいから騙されないように」なんて言っていますし。そういうことに気づくと、常に語られる内容の信憑性を意識せざる得ず、そのために読者はより集中して作品を読むことになってしまうのではないか、そんな風に考えています。これは映画などでは味わえない、「ことば」によって語られる小説の醍醐味だと思い、そのことをわかって欲しいなあと思いながら授業をしていました。
最後に、ちょっと考えていることを。この物語全体が実は生命創造にとり憑かれたヴィクターの幻影であり、怪物は幻であった、というのはいかがでしょうか。じゃあ、最後に、ウォルトン船長が怪物を見るのはどう説明すればいいのか。第三者が目撃しただけでなく、話までしているんだから…。その点については、ちょっと考えていることがあるので、うまくまとまったら論文に書いてみようかなと思っています。楽しみにしていてください。
最近、上智大学小林章夫先生による新しい翻訳も出ました。翻訳で読むのであれば、こちらをどうぞ。

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

本当に考えるべきヒントを与えてくれる作品であると再認識しました。200年くらい昔の作品とはとても思えないような現代性を持った作品であることがわかります。単に臓器移植や生命倫理などの現代的なテーマにつながるからではなく、特に気になるのは、「怪物とは誰なのか?」という根源的な問いを突き付けているからです。早くに母親を失い、父親とも疎遠になり、イギリスから逃げるように大陸へ渡った作者自身であるという解釈もあります。そうであれば、この作品が父親に捧げられていることを知ると、すごく切ない感じがしてきます。ただ、私には、この作品は「怪物はあなた自身だ」ということを読者に突き付けているように思えてなりません。普段、別に何ともなくとも、あるときに、ふと感じる周りに対する違和感や疎外感…。そんな経験のある人には妙にリアルに読むことのできる作品ではないでしょうか。これを二十歳そこそこで書いたメアリ・シェリーはすごいというか、恐ろしいですね。