【小説】「こんなことに意義はあるのだろうか」
今年の日本英文学会の大会は北九州市立大学で開かれましたが、参加した人たちの間では密かに松本清張がブームになっているのではないか、なんて想像をしています。なぜなら、このブログで夏にも紹介しましたが、北九州にある松本清張記念館の話が私の周りでは盛り上がっていました。かつて清張をよく読んだ人たちにとっては作品を読み直すきっかけを、またあまり読んだことのない人たちには新たに作品を手に取ってみるきっかけになったのではないでしょうか。それほどに記念館は充実していたのだと思います。私は後者はありますが、にわかファンになってしまい、少し読んでみようかといくつか文庫で買い込んでしまいました。日本の小説ですが、番外編として書きとめておきたいと思います。
まず、読んでみたのが、小説読みの京都の先生に勧められた短編「ある『小倉日記』伝」。芥川賞受賞作。素直に感じ入りました。下記の短編集に収録されています。
- 作者: 松本清張
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1965/06/30
- メディア: 文庫
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作品のテーマには、すぐれていながらその外見ゆえになかなか世間に受け入れられないところなど、先の『フランケンシュタイン』にも通じる異形なものの悲しみがあることは確かでしょう。青年が初めて異性を意識していく過程を含め、その経緯はとても切ないものです。彼に対する世間の反応は恐いほどリアルに描かれており、清張の容赦しない世間に対する観察眼を見出すこともできます。ただ、私が一番ハッとしたのは次の場面でした。聞き取りで訪れたある人に、冷たい目で見られながら、「そんなことを調べて何になります?」と言われたときの主人公の思いです。
そんなことを調べて何になる――彼がふと吐いたこの言葉は耕作の心の深部に突き刺さって残った。実際、こんなことに意義があるのだろうか。空しいことに自分だけが気負いたっているのではないか、と疑われてきた。すると、不意に自分の努力が全くつまらなく見え、急につきおとされるような気持ちになった。Kの手紙まで一片の世辞としか思えない。たちまち希望は消え、真っ黒い絶望が襲ってくるのだ。このような絶望感は、以後ときどき、とつぜんに起こって、耕作が髪の毛をむしるほど苦しめた。(36頁)
主人公は北九州滞在中の鴎外について聞き取り調査を行ってまとめることに自分の存在価値を見出しており、それに賭ける思いが強い分、彼にとって先のような疑問は自分の人生そのものの問題になっています。その分、大きな問題として常に立ちはだかってきます。ただ、こういった思いは、ここまで深刻なものではないかもしれませんが、誰にでも共有することのできるものはないでしょうか。自分のやっていることに本当の意義はあるのか? 少なからず、多くの人が考えたことがあるのではないかと思います。
もちろん、人生なんて意義のないことばかりで、妙な意義がないからこそいいんだよ、なんて、斜に構えて軽妙にかわすこともできると思います。でも、私には、そういう物言いのできる人は本当には悩んだことがないのではないか、そんなふうに思えてしまいます。反対に、とことん悩んだ末に、そういう悟りの境地の達するのかもしれませんが、個人的には、それには共感することができません。
物語は、戦争という外的な事情も影響し、結末に至って新たな展開があり、主人公の人生そのものの意義が根本的に問われることになります。彼の人生は結局は挫折のそれであった、と考えることもできるのでしょうが、この作品が伝えているのは、明らかにそうではないと思えます。自分の行うことに悩み、それでも迷いながらそれに邁進する、結果的に達成できるのか否かは別にして、そんな人生にはやっぱり意義があるのだ、そんなふうに私はこの作品を読みました。
清張の名前はよく聞くけど読んだことがない、そんな人は、まずはこの作品から読むことをお勧めします。きっと、清張のイメージが大きく変わるのではないでしょうか。ぜひ。