【小説】幼いころのトラウマが…

学会のよいところは、確かにすぐれたシンポジウムや研究発表から多くのことを学ぶことができるという利点があるのですが、それと同じく、あるいはそれ以上に、多くの人たちに出会えて話ができることにあるのも事実です。特に、自分が知らない、あるいは読んだことがない作家や作品について教えてもらえることは何事にも代えがたいことではないでしょうか。ただ飲んでいるだけはありません(ということにしておきましょう)。
今回、松本清張もそうですが、他にもいくつかの作家を新たに読んでみるきかっけを得ることができました。そういう中で出た、アメリカの「暗黒小説」作家ジム・トンプスンをちょっと読んでみようと思って作品を注文したことをある小説読みの先生に話したら、「あれはちょっとbrutalだから…」ということで、フレドリック・ブラウンの『手斧が首を切りにきた』という作品を紹介されました。滅茶苦茶面白いから読んでみたら…ということで挙げてもらったのが下記の作品。これもアメリカですが、非常によくできた作品だと思ったので、ここで紹介します。翻訳には下記のものがあります。

手斧が首を切りにきた (創元推理文庫)

手斧が首を切りにきた (創元推理文庫)

翻訳だとタイトルの意味がよくわからないのですが、原題がHere Comes a Candleだと聞くと、「ああ、あのマザーグースの…」と思い当たる人も多いのではないでしょうか。「オレンジとレモン」で始まる鐘についての唄で、その最後が次のように締めくくられています。

ろうそくが、おまえのベッドを照らしにきた
そして手おのが、おまえの首を切りにきた

マザーグースには意味のわからない不気味なものが多いのですが、この唄もそんなもののひとつでしょうか。でも、イギリスやアメリカでは有名な唄らしく、こうしてタイトルに使われているようです。この唄で思いだすのは、オーウェルの作品との関係について詳しく紹介した下記の本です。この小説とは関係ありませんが、興味のある人は読んでみてください。面白いですよ。

オーウェルのマザー・グース―歌の力、語りの力 (平凡社選書)

オーウェルのマザー・グース―歌の力、語りの力 (平凡社選書)

そういえば、イギリスのちょっとひねくれたバンドのXTCも、このマザーグースのこの唄からタイトルをつけたアルバムを作っています。XTCは昔はよく聴いていたので懐かしいです。
オレンジズ・アンド・レモンズ

オレンジズ・アンド・レモンズ

それだけ、英語圏には、この唄に馴染みのある人が多いということなんでしょう。さて、小説に戻ります。
物語は、十九歳の少年を主人公に、彼が裏の世界で出世してくことと、それに対する気持ちの咎めとの間で右往左往することを中心に進んでいきます。それを象徴するのが二人の女性で、ひとりはギャングのボスの妖艶な愛人、もうひとりはたまたま知り合った同郷のウェイトレスの女性。彼は、この二人のどちらを選ぶかで大いに揺れ動くことになります。危ない橋を渡り、手っ取り早く大金をつかんで安楽な生活を送るのか、あるいは、地道にコツコツ働いて、地味ながらも安定した生活を手に入れるのか。
この選択は、何も彼に限ったものではなく、そりゃ、後者を選ぶべきだろう、と思ってしまうのですが、その生い立ちについて知らされていくにつれ、多くの読者は彼に同情的になっていくため、そう簡単には決められないことがよく理解できます。父親を早くに亡くし、女手ひとつで育ててくれた母親も亡くし、今は頼る大人が身近にいないだけに、すべてを自分で判断するしかないのです。
そんな物語が、小説の語りだけではなく、ラジオ放送、映画、スポーツ放送、ビデオ、シナリオ、新聞記事などのさまざま語りの形式を織り交ぜながら語られていきます。発表当時は斬新な手法にも思えたのだと考えられますが、現在の感覚ではそれほどでもないかのしれません。ただ見事なのは、主人公の幼い頃の経験がいくつものをトラウマとなり、それが常に彼を脅かし、そして結末にもそれがきちんとつながっている構成は見事であり、説得力があります。そして、その筋を流していく背景にある、彼が抱く社会に対するやるせない思いや言葉にはできない苛立ちが非常に説得的に描かれています。
女性の二人はどちらかという平板な感じであり、かつての男性作家が抱きがちな女性についての紋切り型のステレオタイプ(性的魅力でもって男性をダメにするタイプと、良妻賢母型で尽くすタイプ)に終始しているのは否めないのですが、そのことは、いみじくも主人公の少年が女性を見る見方そのものが限定的であることを表していると読むならば、それはそれで説得的に読めてしまいます。
この作品は、ギャング小説を表向きに装ってはいるものの、斧とろうそく、父親の死の原因をめぐる、実は「トラウマ」についての心理小説であることは確かでしょう。何よりも見事なのは、タイトルになったマザーグースの唄が結末へのしっかりした伏線になっているところ。本当にうまくつなげられています。
また、盛んに触れられる冷戦の恐怖からは、当時の緊張した市民生活の様子も伺い知ることがでできます。この作品は見かけほど単純なものではなく、いろいろ取っ掛かりを見つけると重層的にも読むことができそうです。
他にも2冊ほど紹介していただいたので、それらはもとより、ブラウンの他の作品も読んでみようと思います。