【小説】二重人格といえば…

今年の前期にフェリスの授業では3冊の小説を読んだ。『フランケンシュタイン』と『ドラキュラ』のほかに、それとは別の「Reading Fiction」という購読の授業で『ジーキル博士とハイド氏』を読んだ。こちらは、英語のテキスト(研究社小英文学叢書‼ ある世代以上には懐かしいはず)を丁寧に読んでいったのだが、「この作品の英語ってこんなに難しかったっけ?」というのが率直な感想だった。私も、同じテキストを使って、学部時代に原文で読んだ記憶があったのだが、スティーヴンソンの英語について何か考えた記憶はない。あの頃よりも今の方が英語を読む力が落ちているはずはないと思うので、たぶん、学部生の頃には余裕もなくて、辞書を引き引き、ただただ「英語」を読むことに集中していたのではないかと思う(「作品」をではなくて…)。不思議なもので、オースティンの英語も同じように、段々と難しくなってきているような気がしている。
今回、自分でも丁寧に読み直して感じたのは、登場人物の誰が書いているのかによって見事に文体を描き分けているところ。この作品で物語のは、「語り手」「ラニヨン博士」「ジーキル博士」の三人であるが、最終章のジーキル博士の章に入ると、極端に英語が読みにくくなる。というか、「格調高い」というのだろうか、明らかに、これまでの語り口とは英文そのものが違っているのがわかる。もちろん、書き手が違うのであるから語り口が変わってくるのは当たり前なのだが、ジーキル博士の文章は、彼はかなり自分に自信があり、傲慢で、ある意味で独りよがり(つまり自己中心的)であることが端々に読みとれるものとなっていて、最終章に入って、「これはスティーヴンソンはすごい!?」と随分と感心した。そうであれば、これはもったいないと思って、改めて、他の作品も原文で読み直してみようと思った。
物語は、そのタイトルを聞けば多くの人がすぐに「二重人格」や「ドッペルゲンガー(自己像幻視)」を扱った作品の代表作として思い出すものであるが、もちろん、その理解で間違いはない。作品ではジーキル博士がハイド氏に「変身」するのであるが、これは文字通りの「変身」であるとともに、抑圧されたもうひとりのジーキル博士が顔を出してくるものでもある。最終章の告白の中で、自尊心のために自分の中にある欲望を抑え込んで生きてきたこと、そしてそれを表出させるための手段を探っていたことなどが告白されている。名士のジーキル博士も、悪の権化のハイド氏も、その両方ともが彼自身なのであるから、人間の内面のもつ複雑さがよくわかる。
しかしながら、この物語のみそは、ジーキル博士が次のように考えて実験を始めたことであろう。

もしもそれぞれを、べつべつの人格に住まわせることができたなら、人生から耐えがたいことはのこらず消えるはずだと思った。邪なほうは、もうひとりの、正しいほうの向上心や自責の念から解放されて、おのが道を行けばいい。そうすれば正しいほうは、もはや自分につきまとう悪魔の手で、恥や悔悟にさらされることなく、善行によろこびを見いだしつつ、着実に、安心して、向上の道を進むことができる。

このことは、一方(ジーキル博士)に善なるものを集中させ、もう一方(ハイド氏)には悪を集中させたことで、それが混在していたときに比べると、特に「悪」の方の濃度が極端に増してしまう。そして、善悪を分離できるどころか、「善」の制御が利かないところで「悪」が好き勝手に行動できるようになったことで、反対に、「善」は精神的に追い詰められることになったのだ。なぜなら、いかに分離させようとも、結局は、二人ともが「自分自身」であるからだ。ここのジーキル博士の苦悶は別に彼自身のものだけではなく、程度の差こそあれ、多くの人が共有できるものではないだろうか。「〜であるべき」とわかっていながらも、それを行うことのできない自分に気づくことは、少なくとも、私にはしばしばあることだから。そういう意味では、いわゆる「怪物」の物語ではありながらも、誰の中にも必ずそんな「ハイド氏」はいることを痛感させられるのではないだろうか。
たまたま『フランケンシュタイン』を並行して読み直していたこともあって、二つの作品を並べてみると、極めてよく似た物語になっていることがわかった。モンスターを創り出すこと、そのモンスターたちは"the creature"と呼ばれていること、創り主であるヴィクターやジーキル氏に彼らは忌み嫌われるようになること、そしてそれでも「父親」である創り主を心のどこかで慕っていること…。また、実験に成功して新たな生命を創り出すのであるが、最後には自己破壊の悲劇につながってしまうという点でも共通しているといえる。そんなことを考えてみると、確かに、『ジーキル博士とハイド氏』もまた、ある意味ではプロメテウス神話の替え話であることがわかってくる。そんなことを考えていくと、本当に奥深い作品であることがはっきりしてくる。また、この二つの作品の類似性は、『フランケンシュタイン』の物語を「ドッペルゲンガー」の物語として読むことの正当性も示していると言えるのではないだろうか。やはり、モンスターはヴィクターなのだ。
この作品の翻訳には、新しいものとしては下記のものが出ていて、確かに読みやすい感じがする。

ジーキル博士とハイド氏 (光文社古典新訳文庫)

ジーキル博士とハイド氏 (光文社古典新訳文庫)

ただ、個人的には、英語の文体がより生かされているのは、古い下記の翻訳の方ではないかと思っている。慣れるまでは難しい感じもするかもしれないが、いったん入りこんでしまうと、ヴィクトリア朝時代後期のインテリの書く文章を日本語でも満喫できるような気がする。
ジーキル博士とハイド氏 (新潮文庫)

ジーキル博士とハイド氏 (新潮文庫)

多くの人にとって、「タイトルは知っているが読んだことはない」作品の代表作のひとつであるようにも思うが、長くはないこの作品が提示する問題意識は極めて現代的である。これを読むことで、もう一度、自分自身(あるいは自分の深層心理)に思いを馳せてみるとよいかも。お勧め。