【社会】イギリス人が外から見た「イギリス」

Yoshiさんも初めまして。イギリスの様子を知らせてくださってありがとうございます。暴動のような出来事は、きっとニュースになると衝撃的な場面だけがクローズアップされてしまうので、日本では少しオーバーに伝わっているのでしょう。今回も、ひとりで出かけるのであればあまり心配はしないのですが、初めての海外という人もいて、ちょっと不安になっています。それから、送り出す家族の方の心配もわかるので難しいところです。今のところ、予定通りに出かけることになりそうなので、そうなれば楽しめるように努めたいと思います。それから、『恐怖の都・ロンドン』ですが、いわゆる学術書ではなく、一般の読み物です。どこまで参考になるか…。ご興味のあるテーマで面白い本などがありましたら、和書洋書を問わず、教えてください。よろしくお願いします。
昨日まで、ちょっと京都まで遊びに出かけました。懇意にさせていただいいる二人の知人と本や音楽の話をしながらお酒を飲むというだけなのですが、とても楽しく過ごすことができました。こういうところでの情報交換というのはとても参考になることが多いのです。夏の京都はさすがに暑かったですが、それはそういうもので…と楽しめました。
新横浜=京都間の新幹線で読んだのが、長く自分の国を離れて暮らすイギリス人が書いた「イギリス社会」についてのエッセイ。

「イギリス社会」入門 日本人に伝えたい本当の英国 (NHK出版新書)

「イギリス社会」入門 日本人に伝えたい本当の英国 (NHK出版新書)

最近の十八年間でイギリスで過ごしたのがわずか十五ヶ月ということで、自分の生まれ育った国である「イギリス」の見かたも、当然、その中でずっと暮らしてきた人とは違ってくる。元々はイギリス人である訳だから、必ずしも外側からだけ見ている訳ではなく、時には客観的に、別なときには主観的に、いろいろな距離感でもって「イギリス」を眺めているので、読んでいる方は飽きないですむ。それに、ユーモアあふれる記述が方々に出てくるので、読んでいてニヤニヤしてしまった(ゲラゲラ笑ってしまうような感じではない)。
イギリスで生活したことのない人ではなく、旅行で訪れただけでもなく、少しは暮らしたことのある人なら思わず笑ってしまうようなエピソードがしばしば出てくる。例えば、第5章「料理:フランス人にはわからない独創性」に出てくる「チップ・バッティ」という料理。次のように説明される。

これはフィッシュ・アンド・チップスを中心とした夕食のハイライトで、バターを塗ったパン(たいていはホワイトブレッド)にチップスを並べてはさんだものをいう。(49頁)

日本で「チップス」いうと薄くスライスしたポテトをカリカリに揚げたものを指すが、イギリスの場合、それは「クリスプス」と呼ぶ。イギリスの「チップス」は、日本でいう「フレンチ・フライ」のことで、厚めに切ったポテトを揚げたものを指している。つまり、パンにポテトを挟んで食べるのが「チップ・バッティ」なのだ。パンにポテト・フライですよ…。著者も「二種類の炭水化物を同時にとる」と書いているが、すごいボリュームにはなりそうだ。
本書には出てこなかったが、私の好きなイギリスの料理に「ジャケット・ポテト」というものがある。今日のスープとパンという組み合わせの「スープ・オブ・ザ・デイ」もそうだったが、ジャケット・ポテトも昼食にはよく食べていた。これは、大きめの皮のついたままのポテトを丸ごと焼いて、大きな切れ目を入れて、そこにいろいろなものを挟んで食べるというのもの。フィリングズ(詰め物)で人気があるのが、ツナマヨネーズ、チリコンカーン、チキン&ベーコンなどだが、この他にビーンズを挟んで食べることも多い。「ビーンズ」、つまり「豆」。これも「チップ・バッティ」と同じ発想で、炭水化物をダブルで食べることになる。私は「ツナマヨネーズ」が好きだったのでそれを中心に食べていたが、「ビーンズ」も結構人気があって多くの人が注文していたので、ずっと気になっていた。ある日、思い切って頼んでみたが、見たまんまの味で、私には失敗だった。
ビーンズ」は割と人気があって、例えば、ヨークシャー・プディングのフィリングズにもメニューがあって、これも頼んだことがあった。茶色の生地に茶色のビーンズ…色としても今ひとつだったが、味の方も同様だった。そういう経験があって、「なんで同じようなものをふたつ合わせて食べるんだろう?」と不思議に思っていた。単なる味覚の問題だろうか、と。すると、本書に次のような記述があった。

 フィッシュ・アンド・チップスが実は健康食だなどと言おうとしているわけではない。この料理は、19世紀のイギリスで労働者階級の食事として発達したから、高カロリーで安くてうまいことが重要だった。(50‐51頁)

なるほど、そう説明されると納得がいく。とにかく、お金をかけず、そして腹いっぱいになること、それを最優先すればこういう料理が考案されるのはよくわかってくる。そういえば、フィッシュ・アンド・チップスを買っていると、時どき、チップスだけを大量に買って、それにヴィネガー(西洋酢)をべとべとになるほどたっぷりかけて帰っていく人もいる。きっとあれだけで夕食を済ませるんだろうなあと思っていたが、そういう事情があったのだ。こういうことばかり書いているとイギリスの料理はすべてまずいように聞こえるかもしれないが、美味しいものもあるので(本当ですよ)、機会があったらいろいろとチャレンジしてみましょう。
もうひとつ、「そうかあ」と思ったのは、第8章「表現:スズメバチをかんでいるブルドッグ」の書き出しの部分。

 イギリス人はひとつの言語をつくり出したのに、その言語が自分たちのものとはいえなくなった珍しい国民だ。英語を話すイギリス人ひとりに対し、外国には英語のネイティブ・スピーカーが五人いる。かなりの程度まで英語を話し、理解できる人はもっと多い。(73頁)

英語の習得に四苦八苦している立場としては、「国際語」となってしまった「英語」を母語とするのはうらやましいばかりだが、「数千万人、数億人の『外国人』に自分たちの言葉がごく自然に使われている感覚」(74頁)は、日本語を母語とする者としては確かに実感も想像できない。そういう立場になってみると、うらやましがられるだけのものでもないらしい。冒頭の文章は次のように続けられる。

 イギリス人にとっては悔しいことだが、世界の人々はイギリス人が進化させたものとは違う英語のほうに親しんでいるし、そちらのほうを学びたがっている。いうまでもなくアメリカ英語である。アメリカ人ではない人が明らかにアメリカなまりの英語を話したり、アメリカ英語で教育を受けたとわかる表現……を使っているのを耳にすると、ぼくは愉快な気持ちがしない。(73頁)

私自身、あるイギリス人の院生と話をしたとき、「どうして日本人なのにアメリカ英語風の話し方をするのか?」と言われたことがある。イギリス文学を勉強するためにわざわざイギリスに来ているのに、なぜにアメリカ英語を話すのか。当然の疑問だと思う。そう思ったので、日本での英語教育が完全にアメリカ英語がスタンダードになっていること、そのため、英会話の教員にもアメリカ英語を話す人が多いこと(私の学生時代には、ほとんどの外国人教員はアメリカ英語を話していました)などを説明した。この個所を読んだとき、やっぱり彼も愉快ではなかったんだろうなあ、と改めて思い出した。
ジョージ・オーウェルを「最も偉大なイギリス人」として挙げるところは、オーウェルの作品を読むたびに彼のすごさを実感しているので、私も賛成である。こういう個所を読むと、「そうだ、そうだ」と嬉しくなる。ただ、この場合、「現代の」という但し書きをつけるべきだろうか。個人的には、最近、やっぱりディケンズは偉大だととつくづく考えるようになった。
この他にも、肩ひじを張るでもない、気負いがある訳でもない、自然体の「イギリス」の社会を垣間見ることができる本だと思う。