【雑考】同時代の小説を読んでみる

夏雄さん、書き込みをありがとうございます。オックスフォードにも行きましたので、またゆっくりと。
ここ数カ月、日本人作家の小説をかなり集中的に読んでいます。恩田陸角田光代川上弘美佐藤亜紀平野啓一郎保坂和志吉田修一など、比較的に自分の世代に近い作家のものから読み始めているところ。いつの間にか、忙しさにかまけて、日本の小説をまったく読まなくなっていたところ、ある人から吉田修一を勧められて、とりあえず『パーク・ライフ』(文春文庫)を読んでみたのですが、これが面い。これをきっかけに、今の日本の小説を読むようになりました。
ほんの少しだけ読んだ感じですが、最近の日本の小説は、極めて日常的な設定の中に「マイノリティ=他者」を登場させることで生じる違和感を淡々と描いたものと、正反対に、歴史の中に舞台を設定した大掛かりなものとに大きく分かれるような気がします。そのどちらも「仕掛け」がしてあって、感じられる質はちがいますが、どちらも面白く読んでいます。ただ、中には、そういう「仕掛け」とは別に、プロットの勢いでぐっと読ませてくれる、いわゆる、読むことがやめられない作品もいくつかありました。このところで読んだ中で、自分の中で圧倒的だったのは、桜庭一樹『私の男』です。

私の男 (文春文庫)

私の男 (文春文庫)

いわゆるミステリーものも書いてる人なので、この作品にも至るところに「仕掛け」があり、読み進めるうちに謎が解明され、あれが伏線か!とわかると、「おう、おう」という感じで高揚してくる、いわゆる読書に夢中になる愉しみを手放しで味わうことができました。イギリスの小説の場合、面白くて夢中になっているときでも、どこか作品を分析しながら読んでいるような感覚があるのですが、そういう拘束感もなしに一気に読み終えました。
とにかく、作品の構成が見事としか言いようがありません。まず謎を提示して、それが徐々に解き明かされていくというミステリーの基本が活かされているのですが、語り手を変えることによって複数の視点でその「謎」を語らせることによって、読んでいる方は「そうだったのか!」と作品世界に入り込むことになります。また、その語り手たちが登場する順番も工夫され、いわゆる「オープン・エンディング」(そうですよね?)でありながらも、読後の印象としては、作者にほっぽり出されるような感じがなく、私は妙に納得して読み終えました。テーマは重く、不快感を覚える人もあるようだし、語り口も必ずしも親しみやすい訳でもないのですが、一度、作品の世界に入り込むと、読者も簡単には抜けられないような求心力があり、どこか病んでしまうような感じさえしました。しかも、読み終わった後には、その「病んでいる」感じからしばらくは抜け出せません。直木賞をとった作品なので、読んだ人も多いと思いますが、まだの人は、ぜひ。物語ることの迫力が、本当によくわかる作品ではないかと思いました。なんとなく、私は『嵐が丘』を思い出しながら読んでいました。
この作者がとても読書家であることを知って、続けて「読書日記」も読んでいます。その中に、『私の男』を執筆中の様子も出てくるんですが、その集中度というか、入れ込み方には驚きました。読んでいる方が「病んでしまう」ような語りの迫力は、こうして生み出されるんだと妙に納得。同時に、どの作品もそうだけど、小説を読むときには、いい加減な気持ちではなく、きちんと正面から受け止めながら読むべき、そうしなければ、作者に失礼だと、改めて反省したところです。この「読書日記」を読んでいると、その読書量は半端ではありません。量もすごいが、その範囲もまた本当に広い。さすがに勉強しているんだと(本人はそうは思ってないでしょうが)妙に感心。これを幼い頃から続けてきたのだと思うと、とてもマネできません。私はずっと読書好きだった訳ではないので、この読書量は足元にも及ばないのですが、時どき、本好きの人間には共感できるような場面が出てきます。例えば、本を買った後、書店近くの喫茶店での次のようなところ。

…喫茶店の、いつもの窓際席に座って、季節のワッフルを注文する。戦利品の本を取り出して表にして、裏にして、裏のあらすじを読み、開いて1ページめのあらすじを読む(内容は同じ)。登場人物表を見て、本文をちら見して、解説を読み、広告を読む。開いて匂いをかぐ。紙とインクの湿った匂いがする。いい匂いだとしみじみしていると、ワッフルがきた。食べながら解説をもう一回、じっくり読む。(11頁)

何がいいって、「開いて匂いをかぐ」というところ。ここを読んで、思わずにやり、そして、「ああ、この人は小説読みとして信用できる」とすぐにわかりました。実は、私も、以前は、神保町をぶらぶらして、その後、すぐに帰ればいいのに近くの喫茶店に寄って、買ったばかりの本をひと通りチェックする、ということはよくやっていました。特に古本を買ったときには、まさに「匂いをかぐ」ことも…。なんか、普通の感覚からするとかなり変なのだろうとも思うのですが、本には独特の匂いがあるのです。「本」は、書かれてる内容だけではなく、装丁とか、紙質とか、古本の場合にはくたびれ具合や書き込みさえも含んだすべてなのです。私が電子ブックに違和感を感じるのは、それがまったくない無機質な機械だから。でも、やっぱり変? 喫茶店で本の匂いをかいでいる人がいると、やっぱり、引きますよね…。
それともうひとつ、新刊の本ばかりを読んでいる自分に気づいたときの下記の一文にも、ほほう、と共感します。

…新たに出る注目の本ばかり追いかけると、まるで流行りのJ-POPを消費する若者のような心持ちで読んでしまう気がして、手が止まる。
 こういうことを繰り返したら、作家も読者も聞き分けがよく似通った、のっぺりした顔になってしまうんじゃないか。みんなで、笑顔でうなずきあいながら、ゆっくりと滅びてしまうんじゃないか。駄目だァ。散らばれッ! もっと孤独になれッ! 頑固で俠心で偏屈な横顔を保て! それこそが本を読む人の顔面というものではないか? おもしろい本を見せておいて「でも君には難しすぎるかもね」なんて口走って意中の女の子をムッとさせろ! 読もうと思っていたマニアックな本が、なぜかすでに話題になってたら、のばした手を光の速度でひっこめろ! それぐらいの偏屈さは、最低限、保たなくては……。みんな、足並みなんか、そろえちゃ、だーめーだー……。古い本を! 古い本を! むかしの本を! むかしの小説を! 読まないと死ぬゾ。(269頁)

よくわかる。ただ、私は、これとは正反対のことを考え始めています。私が専門にしているのが19世紀の小説ということもあって、普段、関心を向けて読んでいるのは、どうしてもそのあたりの本になっていまう。もちろん、その頃の小説も面白いし、歴史や社会について調べるのも興味深し、現代批評の視点で読み直すこともにもワクワクする。そうしてのめり込んでいくことになるんだけど、時どき、もともとそんな本ばかりを読みたかったの? なんてことを、ふと考えてしまうことも。
今回、イギリスに行ってショックだったのは、書店の「Fiction」のコーナーに、たくさんの聞いたこともない現代の作家の作品が並んでいたこと。Julian Burnes、Ian McEwan、Kazuo Ishiguroなどの知っている名前を見つけてホッとする半面、まったく聞いたこともない作品が「ベスト・セラー」とか「書店員のお勧め」のコーナーに平積みされているのを見て、「今、書かれて、今、読まれている、これらの作品のほとんどを読まずにいていいのか?」と真剣に考えてしまった。そこで、ブッカー賞の候補作を中心に、本屋でよく見かけたものをこっそりと買い込んで日本に帰ったのです(だから荷物が重くなりました…)。そのときの心境は、まさに先ほどの引用の真逆で、「新しい本を! いまの本を! いまの小説を! 読まないと死ぬゾ」といった感じ。やっぱり、バランスが大事かな、と。
授業でも、オースティンやブロンテ姉妹やディケンズらの作品を読むのは大事だし、何よりも作品も面白い。でも、同時に、今のイギリスで書かれて読まれているような新しい作品についても紹介していくべきではないか。そうすることで、改めて古い作品の魅力もわかるのではないだろうか、そういうバランスは大事ではないか、そんなふうに考えるようになっています。日本の今の小説を読み始めたのも、自分の中で、それと同じこと、つまり、同時代の自分の国の小説を読まずに、他の国の小説を語ることなどできないのではないか、といった気持からきているようです。長続きすればいいんですが、幸いなことに「読みたい!」という小説がたくさんあるので、しばらくは大丈夫そうですね。