【小説】クリスマスといえば…

日々の雑務に追われ、気づけば10月に入ってしまっていました。学期が始まると、時間が経つのが早く感じます。久しぶりの書き込みになりました。
まみつんさん、バースの情報が役に立ってよかったです。日本でもそうですが、あの古書店の雰囲気というのは本好きにはたまらないですよね。別に買うものがなかったとしてもたのしい時間を過ごすことができます。イギリス滞在中に、ぜひ、ハレフォードという街の近くのヘイ・オン・ワイという古本屋の集まった村も訪問してみてください。また、私のお勧めの古本屋がケンブリッジロチェスターという街に一軒ずつありますので、行く機会があったらまた知らせてください。そうそう、チョートンはいかがでしたか? やっぱり、いい感じの村ですよね。
後期の授業も二週目に突入。そろそろ準備も本気モードになっていくわけですが、ある授業でチャールズ・ディケンズの『憑かれた男』について話す必要があり、あわてて読み直しました。今回調べてみて驚いたのですが、翻訳が出ているんですね…。少し古いですが、まだ入手できればいいのですが。それにしても、さすが翻訳王国の日本です。

憑かれた男

憑かれた男

ちょっと季節は早いですが、このクリスマス物語について書いてみます。ディケンズには、有名な『クリスマス・キャロル』、『鐘の音』(ちくま文庫に翻訳あり)、『炉辺のこおろぎ』、『人生の戦い』と、この『憑かれた男』の五つの中篇物語のほかに、短篇を合わせると、二十篇を超えるクリスマスに関係する物語を書いています。有名なエピソードに、ディケンズが亡くなった際、ある子どもが「クリスマスのおじさんも死ぬの?」と尋ねたというものがありますが、それもわかるような気がします。それだけ、クリスマスという時期とディケンズが結びついているイメージは強いのでしょう。ただ、今回、『憑かれた男』の英文を読み直していて感じたのは、「ディケンズの英語は難しいなあ」ということ。当時の人たちは、雑誌に連載されたこれらの物語を楽しみながら読んでいたというのが不思議な感じもしました。
この物語は、わかりやすくまとめると、つらい過去を背負った主人公の科学者が、すべての過去を忘れてしまうように亡霊と取り引きをしてしまい、それによってさらなる不幸を経験する、というもの。ゲーテの『ファウスト』は悪魔と「魂」を交換するが、今回は「記憶」を失うことになる。そして、さらに、主人公が出会う人々にそれが感染していくというおまけもついている。人間の「記憶」には、つらいことはもちろん入っているが、同時に、多くの幸せな思い出もたくさんある。ところが、主人公をはじめ、彼に出会う人たちがことごとく、その幸福な「記憶」も失ってしまうことになる。その結果、どうなったか? 善良な人たちがみんな、自分のことだけしか考えられず、日頃の不満ばかりを口にするようになり、幸福だったはずの家庭があっという間に崩壊する。
ところが、主人公のそんな「負の力」に感応しない人物が二人だけいる。ひとりは主人公が教えているコレッジの管理人の夫人ミリー。もうひとりは、その彼女が世話をしている貧しい男の子。特に少年は、「記憶を完全に奪われた人間の、究極のそして完璧な実例」(120頁)として、人間のもっとも不幸な状態を象徴する人物として登場する。そして、物語が伝えるメッセージは、亡霊の次のような言葉に集約される。

「日夜の歩みの中で、そのかたわらを、こうしたみじめな生き物が通り過ぎるのを目にとめぬ父親は一人としていない。この国のあらゆる情愛に満ちた母親たちの中で、それを目にとめぬ母親はいない。子供から大人になったものでこの大罪に対して、それぞれに応じて責任を逃れられるものはいない。この地球上に、この大罪によって呪われない国は一つだってない。この地球上にこの大罪によってないがしろにされないような宗教はない。この地球上にこの大罪によって辱められないような人は誰一人いない。」(121頁)

こうして、人びとの社会の問題に対する「無関心さ」が批判されるのであるが、それに対抗できるものとしては、ミリーの無私の善性だけなのである。彼女が改心した科学者とその場に現れるだけで、人びとはもとの善なる存在へと戻っていく。そして、結末で、例の貧しい少年に一緒に遊ぼうと声を掛ける他の子どもたち、そして、ミリーに対する少年の思慕の情が、この世の不幸を少しでも解消するひとつのものとして描かれる。「頑な心→不思議な経験→改心」というのは、ディケンズの描くのクリスマス物語のパターンの定番でもあるが、物語を読みながら、多くの人たちは自分自身の生活を振り返ったのかもしれない。
長篇小説とは一味違った面白さがディケンズの短篇や中篇にはあります。ちょっとした時間を利用して読んでみるのもよいかもしれません。