【小説】新しいインドの英語小説

イギリスの現代の小説が、いわゆる「イギリス」というひとつの国の枠組みを超えたものになっていることについては前々回のブログでも触れたが、『喪失の響き』で2006年にブッカー賞を受賞したキラン・デサイは、そんな傾向を象徴する作家のひとりということが言えそうだ。「インドのオースティン」と称される小説家であるアニタ・デサイを母親に、14歳まではインドで過ごし、その後、イギリスで教育を受け、アメリカの大学を出ている。そして英語で小説を書く。そんな経歴の彼女について、「インドの作家」「イギリスの作家」「アメリカの作家」という分類が意味のないことは明らかだろう。日本で暮らしていると、まだまだ「イギリスの」小説、「アメリカの」小説という区分で考えることが多いが、イギリスの書店で「Fiction」のコーナーに置いてある本を手にとって作者の経歴を確認すると、旧植民地出身者が多いことに気づかされる。イギリスでは、「どこの国の小説か」という意識がすっかり希薄になっているようだ。
『喪失の響き』という作品も、そういう傾向を反映してか、インドのカリンポンを中心にしながらも、イギリスのケンブリッジアメリカのニューヨークという三つの場所を結びながら語られる。作品の背景には1986年のゴルカ民族解放戦線(ネパール系インド人)の独立運動があり、「自分とは誰なのか?」というアイデンティティをめぐる問いが突き付けられることになる。

喪失の響き (ハヤカワepiブック・プラネット)

喪失の響き (ハヤカワepiブック・プラネット)

主人公の少女の祖父はケンブリッジで法律を学んだ元判事である。彼の留学経験は決して幸福をもたらせた訳ではなく、むしろ民族的な劣等感を植え付けることになり、留学前に結婚したインド人の妻のことが許せなくなる。主人公の少女は、両親をなくした後に祖父と暮らすようになるが、修道院で受けた教育のために、すっかりヨーロッパ風の考え方に染まっている。この二人、そして近しい友人たちは、インドに暮らしながらも、意識はすっかり西洋に向けられているのだ。
やがて、主人公の少女のところに家庭教師としてやってきた青年との間に愛が芽生えることになる。初めこそうまくいくかのように見えていたが、やがて階級や生活スタイル、そして自分たちの国に対する考え方の違いからうまくいかなくなってしまう。そして、青年は次のような本質を指摘するが、それが主人公には伝わらない。

「きみは物真似がしたいだけ。それはまったく明らかだ。自分の頭で考えられない物真似人間さ。わからないのか? きみが真似ようとしている連中。やつらはきみなんかいらないのさ!」

一方、使用人の息子はひと儲けしようとアメリカに密入国してレストランで働いている。しかし、そんなにうまくいくわけもなく、生来のやさしさも災いして、なかなかうまくいかない。永住権を得るための結婚を求めてうまく立ち回る友人を尻目に、故郷のインドを想いながら劣悪な環境の中で一生懸命に働いている。そんな中、父親が体調を崩したことを聞き、せっかくの機会を棒に振ってもインドに帰国したものの、家に着く直前に身ぐるみをはがれ、一文無しとして帰宅する。それでも親子は再会を喜ぶ。
主人公とその祖父は積極的に社会にかかわったり動くことはなく、ある種の膠着した状態にあり、それと対照的に、使用人の息子はインド➔アメリカ➔インドと移動しながら、「自分とは誰なのか?」という問題が身にしみながら生きることになる。彼の境遇や経験からはとても幸福には思えないものの、父親を想う気持ち(そして父親の息子を想う気持ち)は本物であり、最後の場面で雄大なヒマラヤを臨むカリンポンの風景にはある種の救いが描かれているのは確かであろう。先のような著者の経歴を考えながらこの作品を読んでいると、海外で外国語を使いながら生活を続けることについて改めて考えてしまう。
この作品については、下の本の中で詳しく論じたので、興味のある人は読んでみてください。