【小説】公園生活は素敵?

前回、本を読む暇もなく…なんて書いていましたが、もちろん、まったく読んでいないわけはなく、じっくりと読む余裕がなかったというのが正確なところでしょうか。そんなふうに合間に読んでいた小説のひとつが吉田修一の『パーク・ライフ』。2002年の第127回芥川賞受賞作。

パーク・ライフ (文春文庫)

パーク・ライフ (文春文庫)

地下鉄で奇妙な出会い方をした「ぼく」と「彼女」は名前も知らない。そんな二人が会社がお昼休み中の日比谷公園で再会する。公園には、サラリーマンやOL、そして風船を上げている奇妙な老人など、さまざまな人がそれぞれの時間を過ごしている。そんな公園での二人のつかず離れずの関係について描いたもの。
文庫版の帯には、芥川賞の審査委員のひとりの村上龍が、「『何かが常に始まろうとしているが、まだ何も始っていない』という、現代に特有の居心地の悪さと、不気味なユーモアと、ほんのわずかな、あるのかどうかさえはっきりしない希望のようなものを獲得することに成功している。」というコメントがある。さすが、この作品の雰囲気をうまく伝える言葉になっている。作品は次のように終わる。

「あお、明日も公園に来てくださいね!」
 そう叫んだぼくの声に、人々が一斉にこちらへ顔を向けた。人ごみの先に、ちらっと切れ長の眼が見えた。一瞬、肯いたようにも見えたが、彼女はそのまま人ごみのなかに姿を消した。消えた彼女に背を向けて、ひとり公園のほうへ歩きだすと、「よし。……私ね、決めた」と呟いた彼女の言葉が蘇り、まるで自分まで、今、何かを決めたような気がした。(100-101頁)

この小説のすべては最後のひと言「〜ような気がした」という一文に集約されるのではないだろうか。いわゆる「大きな物語」を語ることが困難になってしまった今の時代には、「小さな物語」について、しかも不確かで自信なげな口調で、だけど決然と語るしかないというのは私にも共感できるものである。頼ることのできる絶対的なものがなくなった時代を描くに当たっては、まさに的確な結末だと思う。その点は、村上春樹以降の日本の小説に通低している感覚だろう(十六歳の春の「ひかる」という同級生とのことなど、まさに『ノルウェイの森』世代であることがよくわかる)。
ただ、同時に、物足りなさを感じないわけでもない。アメリカで「ミニマリズム」と呼ばれるスタイルの小説(主に短中編)が流行したことがあったが、そのとき、少し揶揄的なニュアンスで「半径5メートルの小説」と呼ばれていた。つまり、身近で些細なことだけを描くことで日常の虚無感をうまく表現している感覚が共通する物語のことである。ただ、その感覚をうまく描くことができればできるだけ、ことばで「語ること」を凄さを失ってしまっているのではないか、ということも感じられる。「ミニマリズム」小説が全盛の頃、個人的には、その反対を進んでいたジョン・アーヴィングのような饒舌な語りの小説の方が、やっぱり面白いと思っていた。
パーク・ライフ」というタイトルを見たときに思い出したのは、イギリスのブラーというバンドの3枚目の同名のアルバムに収録された"Parklife"という曲。

Parklife

Parklife

ドックレースの一場面を写したこのジャケットはあまりにもイギリス的で、私は「イギリス」と聞くと、このアルバムのことを思い出してしまうことも多い。

All the people
So many people
They all go hand in hand
Hand in hand through their parklife

というサビの部分に挟まれて、あくせく生きることを否定しながらも、だからと言って、公園でさまざまに時間を過ごす人たちの生き方を手放しに称賛するでもない、というイギリス的な皮肉感覚いっぱいの歌である。詳しい歌詞は以下のサイトで。
http://www.lovecms.com/music-blur/music-parklife.html
今の学生のみなさんは知らないと思うけど、1990年代のイギリスでは「ブリット・ポップ」と呼ばれるヒット曲が次々に出てきていた。その双璧だったのが、このブラ―とオアシス(Oasis)。競うようにわざと同時期に新曲を発表して、音楽シーンを盛り上げたりもしていた。というのは、この二つのグループはあらゆる点で対照的で、「北(=マンチェスター)のオアシス、南(=ロンドン)のブラー」とか、「労働者階級のオアシス、中産階級のブラー」とか、地理的にも階級的にもはっきりと違っていたことも大きな話題でもあった。
ブラーはヴォーカルのデーモンが格好良かったこともあってアイドル的な扱いを受けていたが、個人的には、彼の歌う皮肉たっぷりの曲はイギリスらしくて大好きだった。アメリカではまったく売れなかったというのもよくわかる。ブラーの曲は、例えば、キンクスに通じるようなところがあって、イギリス英語も含め、アメリカ人にはよくわからないのだろうと思う(想像だけど)。
小説『パーク・ライフ』に戻ろう。読後にまず感じたのは、「これなら自分にも書けるのでは…」ということ。実際は、書けるはずはないのだが、あまりにも身近なことが等身大に語られるので、そんな錯覚を抱いてしまう読者も多いのではないだろうか。それだけ、ここには自分の物語が描かれているという共感が強いのだろうと思う。ただ、それは働き始めて感じるものなのかもしれない。これを学生の人たちが読んでどんなことを感じるのかがとても興味があります。