【小説】永遠の「青春小説」はあり得るか?

最近、緩やかな読書会のようなものをやっていて、毎月1冊、決めた小説について好き勝手に感想を述べ合うようなことをやっている。名前は聞いたことがあるが読んだことがない作品を扱うことにし、国にはこだわらずに、多くが興味を持ちそうなものを選ぶようにしている。
もともとは、卒業後にも本を読み続けて欲しいと思って始めたのではあるが、肝心の卒業生たちは忙しいのかなかなか反応してくれず、メールやらで読後の感想を送ってきてくれるのはもともと本好きの現役生が多く、「う〜ん、啓蒙の方法としては難しいなあ」と感じているところ。でも、意外な人が意外なコメントしてくれたり、こちらがまったく知らない作家や作品を教えてくれたりと、それなりに面白くやっている。
ということで、第1回目はJ.D.サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。今回は、私も慣れ親しんだ野崎訳ではなく、村上春樹の新訳の方を読んでみた。イギリス小説ではないが、なかなか興味深い反応もあったので、ここに書いてみたいと思う。

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ』、つまり『ライ麦畑でつかまえて』といえば、「インチキな大人世界に対して抱く若者の嫌悪感が描かれた永遠の青春小説」といった説明がよくなされてきた。そのことを象徴するのが「吐く」という行為。たとえば、街角でクリスマス・ツリーを運ぶのを見たとき、主人公のホールデンは次のようにふるまう。

でもそれはいたましいなりにも滑稽なことではあったから、僕はつい笑ってしまった。でもどう考えてもそんなことやっちゃいけなかったんだね。というのは笑い出した瞬間、僕は吐き気みたいなものを感じてしまったんだよ。真剣に戻しそうになったわけさ。ほとんど喉元まで出かかったんだけど、次の瞬間には吐き気は消えていた。どうしてそんなことになったのか、わけがわからない。だって不衛生なものなんて何ひとつ口にしていなかったし、僕の胃はもともとかなり丈夫な方なんだから。(326頁)

あるいは、妹の学校を訪れたときの様子。

 ところが階段を上がっているときまったく出し抜けに、僕はまた吐きたくなってしまった。でもなんとか踏みとどまった。しばらくそこに座っていたら、やがて吐き気はおさまって来たんだ。でもそこに座っているときに、僕はあるものを目にして頭が変になりかけた。(332頁)

じゃあ、ホールデンは何を見て「吐き気」を覚えてしまったのか? いわゆる「ののしり言葉(swearing)」である。そういった言葉は日常的に使われているのであるが、彼にはショックが大きすぎる。彼の純粋さを象徴する行為として「吐く」が用いられていることがわかる。そして、結末で、無邪気にメリーゴーランドで遊ぶ妹の姿を雨に打たれながら見つめるホールデンの姿を描いて作品は終わる。「無垢さ」の象徴の妹フィービー、そしてホールデンが雨に打たれるのは世間の「汚れ」を洗い流してくれることを意味しているのだろう。ニューヨークという都会で汚れてしまったホールデンが、もう一度。純粋さを取り戻す場面である。こうしてみると、確かに「インチキな大人世界に対して抱く若者の嫌悪感が描かれた永遠の青春小説」として読まれることはよくわかる。
ところが、今回、学生を中心にこの作品を読んだ感想を募ったところ、私にとっては意外な反応が戻ってきた。まず、作品途中では「読み続けるのがつらい…」という声がちらほら。ホールデンの語りが「ウザい」という。また、読み終わった人たちも、ホールデンに共感するどこか、彼は「うっとうしい」というのである。今回、学生の多くは村上訳で読んでいるようで、野崎訳に比べると、私も若々しさが少ないように感じた(ただ、私が野崎訳を読んだのは随分昔のことなので、印象違いかもしれないが)。確かに、彼の独白には独善的で自己中心的な感じが否めないのは確かだが、それもまた青春の特権だと考えていたが、どうもそうは映らないらしいのだ。こうした感想に代表されるように、『ライ麦畑でつかまえて』は青春小説であるどころか、「ウザい若者の屁理屈めいたたわごと」(これは言いすぎですね)のような話に読めてしまうようだった。
私は「世代の差?」と考えたのであるが、大学でアメリカ文学を教えているある人もコメントを寄せてくれて、その人曰く、「読者の男女差があるんじゃないか」という。確かに、今回、コメントを求めたのはほとんどが女子学生であり、女性から見たホールデンというのは、先のコメントのように見えてしまうのかもしれない。じゃあ、昔からホールデンに共感を覚えるのは男子だけかというと、たぶん、そうではなかったように思うので、この指摘について考えてみて、もし世代間や男女間の感受性の差が出てくるのであれば、それはそれで面白い。後期の非常勤先の男女共学の大学で授業でこの作品を少し扱うことになっているので、そのあたりを探ってみようかと考えている。
やっぱり、「永遠の青春小説」なるものはないんだろうなあ、というのが今の率直な私の感想である。考えてみれば当たり前で、時代によってはもちろん、個々人によっても、ものの感じ方は違うのだから。ただ、ある世代に共通する感覚があるのは確かで、私もやや遅れながらも、ぎりぎりホールデンに共感できる世代なのだろうなあと思う。そもそも、今の若者たちは初めから世の中の偽モノぶりが見抜けているから、今さらホールデンのような不器用な人間にそういうことを指摘されても、それは「うっとうしい」ものにしか感じられないのかもしれない。なんてことを書きながらも、あまり大きな声では言えないが、今回、読み直して、私もホールデンの語りには違和感を覚えていたのは確かである。それは加齢によるものなのか、あるいは生きている時代の感覚の変化によるものなのかはよくわからないが。ただ、高校や大学時代にこの作品を読んだとき、一度ならずも二度までも、どうして自分をホールデンに同一化させて読むことができたのかが不思議である。