【雑考】大学で文学を学ぶとは?

早いもので新年度。このブログも更新することなく1ヶ月が経ってしまった。毎週の更新を目指すと言った矢先なのに…。あまり思い詰めることなく気楽に更新をしていきたいのであるが、これではあまりにもひどいので、少しはしっかりしたいと思います。あきれずにお付き合いをよろしくお願いします。
新年度を迎えるに当たって、担当する授業などもすべてリセットされます。もちろん、昨年末あたりにシラバスを考えるときに大まかな授業の枠組みは考えている訳ですが、4月に入ってからは具体的な準備を始めています。いわゆる個別の作品を扱う授業では、これまでに読んできた論文の中で使えそうなものとか、久しく扱っていない、あるいは初めて授業で扱うような作品では、最近の論文や研究書を調べて読んだりもしています。
そんな中で少し難しいのが文学史や概説的な授業でどういう話し方をするのか、ということ。単純に作家や作品の紹介や背景的なことを話すだけなら楽なんですが、たぶん、それではつまらないし、それらを読んでみたいとは思わない気がします。自分でもそうだったから。だからといって、自分の個人的な好みについて話したところで、もしかしたら面白い話になるのかもしれないけど、それだけでは授業としてはやっぱり不十分な気がします。「じゃあ、どうするの?」ということろで悩んでしまう訳です。
授業について準備をするときに心がけているのは、「小説を読むことは役に立つのだ」ということをわかってもらいたいということ。「役に立つ」ことを基準にするなんて悪しき功利主義的で個人的にはあまり声高に言いたくはないのですが、こういうご時世なので、「文学は芸術だ。だから役に立たないからこそ価値がある」などと開き直る訳にもいかないと思っています。先人に対する批判めいた発言になってしまいますが、ある意味、そういう風潮の蔓延が大学から文学部や英文学科がなくなってしまった大きな理由のような気がしています。ただ、そのような発言の真意には、「一見、役に立たないように見えるが、実は大きな意味のある学問分野だ。わかる人にわかればそれでいい」というニュアンスも多分にあるのだと思いますが、即物的な世間にはそれが通じなかった、という方が正しいのではないかとも思います。じゃあ、そんな世間にも大学で文学を学ぶことの意義を認めてもらわないといけない、そういう努力が必要なのではないかと思う訳です。だったら、当然、文学研究の手法についても考え直す必要が出てくることになります。
「文学研究から文化研究へ」ということが主張されるようになってから久しいのですが、時どき、「この論文にはあなたが出てきていない」といったコメントをもらい驚くことがあります。あるいは、論文指導を傍らで見ていると、「作者はそんなことは意図していないでしょ」といったコメントを聞くこともあります。最後は、「テキストをしっかりと読みなさい」で終わるのですが、「テキストを読む」ということについての意識の違いに驚かされてしまいます。「文学研究である以上、作品を丁寧に読むことは当たり前のはずなのに…」、きっと、言われた学生は思っているに違いありません。
私の授業で心がけているのは、文学作品を読むときに必要な姿勢については自分なりのものをできるだけ紹介しようと思いますが、解釈を誘導することだけはしないということです。そのため、時どき、授業のコメントに「はっきりした物言いをして欲しい」と書かれることもあります。でも、授業というのは、作品のそのものを教えるのではなく、その方法を教えて、それを使って自分なりに考えてレポートを書いていく場であるべき、と考えています。それが本当に難しいのですが。そして、心がけているもうひとつが、必ず現代の日本やそこで暮らす自分たちのことを考え直すきっかけになるようにすることです。『ロビンソン・クルーソー』『ガリヴァー旅行記』『パメラ』『高慢と偏見』『ジェイン・エア』…あらゆる時代の作品は、そのまま現代の自分たちのことを考えるためのテキストであることを忘れないようにしています。その時代のイギリスの文化や社会について文学作品を通して学ぶだけではないはずです。
そんなことを考えながらしばしば読み直すのが下記の本。文学や小説が役に立たないといわれるからこそ読んでみる意味のある本だと思います。特に大学で文学を学ぶ3,4年生は、卒論を書く前に読んでみると考えるためのヒントがたくさんあるのではないかと思います。私も読み直して今年度の授業の準備に取り掛かります。

「英文学」とは何か。

「英文学」とは何か。