【挿絵】イギリスを自転車で旅すれば

考えてみると、「自転車」という乗り物には不思議なスピード感がある。人間にとって基本は歩く速さだが、鉄道が開通すると、私たちが感じる日常的な移動のスピードはぐっと速くなった。さらに、自動車、特急、新幹線、飛行機、ロケット…と、どんどん速い乗り物が発明され、人間は常に「速く移動できること」を求めてきた。速いものほど便利で役に立つと言わんばかりに。ところが、「自転車」というのは、歩くよりも速いのではあるが、自動車よりは遅い。しかも、自動車での移動は基本的には肉体的な疲労を伴わないが、自転車での移動は、歩くよりは軽いものの、自分でペダルを踏んで進むのだから、当然、段々と疲れてくることになる。この中途半端さ。でも、その半端さが自転車の魅力なのかもしれない。
イギリスのポーツマスという軍港の町で生まれ育ち、19世紀末から20世紀初めにかけて『サイクリング』という雑誌にイラストを描き続けた画家に、フランク・パターソンという人がいる。もともと画家を目指すが、すぐには夢を果たせず、広告スタジオに勤務。当時流行していたサイクリングを趣味にしていたところ、先の『サイクリング』誌の挿絵に魅了され、自分の線描画を送付。それが編集者の目に留まったことから、以後60年間に渡って、専属の挿絵画家となったいう。そのパターソンの画集が日本でも出版された。

サイクリング・ユートピアーフランク・パターソン画集

サイクリング・ユートピアーフランク・パターソン画集

サイクリングの雑誌に掲載されたものなので、絵のすべてに自転車が書き込まれている。イングランドの田園風景の中を自転車に乗ってゆったりと走る姿、新婚旅行中の二人乗りのカップル、サイクリング・レースで疾走する自転車…。しかしながら、ここに描かれているのは自転車だけではなく、人々の生活そのものもまた丁寧に描かれてもいる。自転車にまたがって郵便配達夫に手紙を渡す男性、自転車を止めて木陰で寝転がって休む男性、サンドイッチを頬張る男性、"Teas: Cyclist Catered for"と看板を出す田舎のパブ、"Teas: Cyclist Welcomed"と看板を出してお茶を振舞う年配の女性など、この時代のイングランドの田舎の生活ぶりや「もてなし(ホスピタリティ)」ぶりを伺うことができる。また、自転車の普及は、女性にとっても、より早く遠くまで自分で移動することができる手段として、大きな意味を持っていたはずである。
十数年前、イギリスのケンブリッジに滞在していたとき、移動手段としての自転車は重宝した。駐車場を探す必要もないし、考えているより遠くまで楽に行くこともできるし、何よりも運賃やガソリン代がかからない。ケンブリッジは学生の町だけあって、そのような便利な自転車を使っている人が多く、まさに「サイクリング・シティ」であった。でも、自転車は、何よりも、人間にとって恐怖を感じることのない、自然なスピードでありながらも歩くより速く移動することができ、頬に当たる風や町や村の匂いを直に感じることができるという意味で、乗り物の中でも最高のものなのかもしれない。パターソンの絵を見ながら、ケンブリッジ郊外の村の風景を思い出し、そんなことを考えた。100年くらい前の田舎の風景が描かれているものの、イングランドでは、その様子は今でもほとんど変わっていない。そんな素敵な画集。