【映画】アニメーションで見る動物農場の衰亡

非常勤@桜上水の基礎ゼミの前期授業で、今年もジョージ・オーウェルの小説『動物農場』を読んだ。英語も動物や農場の専門的な単語以外は難しくもなく、長さも半期15回の授業で読み終わるには適当だし、そして何よりも、ロシア革命を描きながらも非常に現代的でリアルな問題を提示していることもあって、イギリス文学というよりも、文学を学んでいく上では格好の教材だろうと思う。それに加え、以前にも紹介したが、岩波文庫の川端康雄訳には詳細でわかりやすい「解説」が付いているので、作品を理解するための格好の参考書になるのも便利である。さらに授業で使いたくなる教材としているのは、この作品にはアニメーションの映画化された作品があることが大きい。今回は、小説ではなく、アニメの『動物農場』について書いてみたい。

動物農場 [DVD]

動物農場 [DVD]

イギリスのアニメーション会社であるハラス&バチュラーが1954年に制作したものを、スタジオ・ジブリが修復したものを2009年にDVDとして売り出したもの。ハラス&バチュラーは1940年代から70年代にかけて活動したアニメーション・スタジオで、この作品のほかにも様々な作品を発表している、イギリスのアニメーションの分野の草分け的な存在である。最近の大学での文学の授業では映画を使うことが多いが、今回、原作を読みながら、同時にこのアニメの作品も観ていく感じで授業を進めてみた。映画化された作品は、それだけでも原作についての十分な批評になり得るものであるが、原作をこのアニメと比較しながら考えることで、おそらく原作だけでは見落としてしまっていただろう点に気づかされた。
全体の物語は割と原作を忠実に再現しており、動物の生態などもきちんと生物学的特徴に基づいたものになっているようで感心した。例えば、初めて農場の納屋に動物たちが集まるときに中庭を横切るが、彼らは堂々と真ん中を渡るのではなく、遠回りをしても壁沿いに並んで歩いていく。これは、人間の目を盗んでの行動であることからくる不安感と、他の動物たちとは違う行動を取りたくなくないという臆病さとをうまく描いた場面であると同時に、確かに、羊たちはそんな歩き方をしそうだと納得できた場面であった。しかしながら、アニメでは、モリーやクローヴァーといった大事なキャラクターが消えているし、ベンジャミンについても性格付けが大いに変えられるなど、原作とは異なる設定もたくさんある。そのひとつひとつをとりあげる訳にもいかないので、ひとつだけ、結末の違いを挙げておきたい。
原作では、ナポレオンを中心とする豚と近隣の人間たちが祝会を開いているところを、年をとって目が霞んできたクローヴァーという牝馬が外から覗き込むところで終わっている。クローヴァーの目には、豚たちと人間との顔が重なってしまい(目の霞みによるものだけではないだろう)、すっかり見分けがつかなくなってしまうところで作品が終わる。つまり、人間による支配を転覆したものの、結局は、それは人間から豚に変わっただけで、自分たちの生活がひどく厳しいということは変わらずに続くという、絶望的な終わり方となっている。ところが、アニメの方は、最後の場面でロバのベンジャミンが活躍する。そこで開かれているのは豚たちによる祝会であるが、それを覗き込んだベンジャミンには豚たちが人間に見えてくる。そして、ベンジャミンの怒りの呼応するかのように、他の動物たちも続々と集まってきて、今度は豚たちの支配を倒すべく、すべての動物たちが立ち上がるという、再度の革命を起こすところで終わっている。原作と比較するまでもなく、アニメの終わり方は、ある種の希望が見えてくるように作られている(もちろん、次にリーダーとなる動物が豚たちと同じ独裁体制を引いていくことは大いにあるので、そう考えれば、これも悲観的な終わり方になるが)。これは、小説と映画という表現形式というよりも、読者と映画の視聴者というマーケットの違いによるところが大きいのだろう。
このDVDの解説だったか、どこかで宮崎駿が非常に興味深いことを書いているのを読んだ。このアニメ作品が素晴らしいできであることは認めながらも、もし自分が『動物農場』をアニメ化することがあれば、独裁者ナポレオンの視点から描いてみたいというもの。それは、彼も最初はいわゆる民主的にことを進めようと考えていたが、他の動物たちがあまりにも無能すぎることに失望し、すべてを自分でやってしまわなければいけないと考えるようになり、やがてブレーキがきかなくなって暴走してしまったという物語となるという。つまり、ナポレオンも悪いのではあるが、彼を失望させた動物たちの無能さにも大きな責任があるのではないか、という問題を提議することになる。
確かに、原作を読んでいると、スノーボールが試みた動物たちへの教育はなかなかうまくいかず、やがて彼らがその努力もしなくなっていく様子がうまく描かれている。そのため、文字が読めない動物は自分たちの「記憶」に頼るしかないのだが、その「記憶」も文字化されて頭に入っているのではなく、印象として残されているものだけに非常にあやふやなものとなっている。だからこそ、豚のスクイーラーに言葉巧みに言い含められてしまうと、自分たちの「記憶」をいとも簡単に豚たちに都合のいいように修正してしまうのである。そして、「記録が残っているのか?」と問われると何も反論できないだけでなく、「七戒」に加筆修正をされてしまっても、それをきちんを指摘することもできなくなってしまう。それだけではなく、スノーボールをめぐっては、英雄から裏切り者へと立場がすっかり貶められるしまうのだ。歴史の改ざんである。
このように、『動物農場』は「記憶と記録」をめぐる歴史認識についての問題提議もしているのだが、ここに至る過程を読んでいくと、必ずしも騙す方にだけ咎めるべき点があると言い切れなくなってくる。民主的な農場を運営を目指していたスノーボールであったが、もし彼が追放されることがなかったとして、果たして、最後まで農場全体での協議によって運営していくという方針を守り続けることができたのかと問われると、とても危ういのではないかという気がしてくる。
もちろん、各個人には能力差があるので、すべてが同等の能力を身につけることはできないことは容易に理解できる。ただ、農場の中には、ベンジャミンのように、文字が読めながらも、すべてが些事であると達観して何もしなかった者たちもいた。また、能力がない者たちも、知識を得ることへの興味を失うことなく学習を続けていれば、遅々たる進みかもしれないが、今あるのとは違った見方ができるようになっただあろう。もしベンジャミンが早い時期に能動的に活動していれば、他の動物たちが少しでも「ことば」を使うことができていれば、動物農場の行く末が大きく変わっていたことは確かである。
まず、アニメーションを観て、興味を持ったなら、ぜひ、原作も読んで欲しい。今だからこそ、日本でも読むべきリアルな問題提議が行われていることがわかるだろう。悪政を招くのは、政治家が悪いからだけではない。その責任は私たちにもある。
動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)

動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)