【小説】イギリスの「困難な時代」

ディケンズの『困難な時代』を読み終わった。今回、びっくりしたのは、作品の内容というよりも、原書がとても安く買えたこと。読んだのはWordsworth Classics。安いから買ったのだけど、値段は何と260円。円高とはいえ、信じられない安さ…。

Hard Times (Wordsworth Collection)

Hard Times (Wordsworth Collection)

短いながらもきちんとイントロダクションは付いているし、一読したところでは、テキスト校訂も問題がなし。それでも心配なので、PenguinとOxford World's Classicsも購入したものの、それぞれ879円と776円。かつては、ペーパーバックといえば2,000円くらい、円高が進んでも1,200円くらいのイメージだが、260円で手に入るようになるとは。廉価版のWordsworth Classicsではあっても、これはいくらなんでも安すぎるのでは…。
反対に高すぎると思うのは日本の文庫本。例えば、ちくま文庫ちくま学芸文庫は売れそうにない硬派の訳書を揃えていて、それはそれで感心するばかりなのだが、軒並み1,000円を超えてしまい、文庫本としては高すぎると思ってしまう。それでも、骨のある筑摩書房は応援したいので、できるだけ新刊で買うようにしているものの、私の感覚では、文庫本は500円以下が順当な感じだろうか。それだけ売れないということだとは思うけど。先のペーパーバックと比べてみると、これは原書を読むしかない、ということになってしまう。まとめて買っておくといいかも。
肝心の小説の方だけが、主なテーマはヴィクトリア時代に流行した「実用」重視の教育方針に対する批判。舞台はロンドンではなく、マンチェスターがモデルになっという新興の工業都市。「事実」を重んじるばかりに、子どもたちの「空想」を抑圧する傾向を、教育一家を主人公に描いている。「実用」偏重主義については、例えば、オスカー・ワイルドの童話(といわれる)「幸福な王子」でも批判されているように、19世紀半ばのイギリスにおいては重要な要素であったように思われる。学校を経営する父親は、自らの「事実」重視の教育方針を実践する方針で自分の長女と長男を育てる。「空想力」を奪われた子どもたちがどのように成長するかといえば、父親の教育方針には逆らうことなく、長女は自らの意思を抑圧することで不感症的(表面的には、だけど)な娘へと成長し、意に沿わない結婚をする。結婚相手は、これまた「実用」偏重主義者の年長の工場経営者で銀行家。長男の方は、そんな姉の愛情を平気で踏みにじる悪党になってしまう。「事実」偏重が、やがて「打算」へと変わっていくである。作品の結末において、父親は自らの過ちに気づくものの、時すでに遅し。それでも、子どもたちのために精一杯のことをやってやろうとする。父親には悪意はまったくない。本当に子どもを想う一心から誤った方向へと進んでしまうところが滑稽でもあり、すごく悲劇的でもある。
この一家と対照的なのが、サーカスの一団出身で、理由があって父親が失踪し、先の一家に養育される少女。一家の教育方針に馴染むだけの能力がなかったことが幸いして、天真爛漫なままで成長していく。そして、時には煙たがれながらも一家を救うのはこの少女の「善意」である。やや観念的すぎてリアリティのない感じもするものの、「実用」一辺倒の社会の中での救いになっているのは確かである。
この一家の物語と並行して語られるのが、労働者のカップル。この二人、相思相愛でありながらも、男性の方が若さゆえの過ちの結婚をしたために結ばれることはない(男性の妻はアル中になっており、失踪の常習犯)。当時は、離婚をするにも莫大なお金がかかり、離婚もままならない。ひょんなことから、男性が職を失い、街を出ていくことになる。そんな折、先の娘が嫁いだ先の銀行でお金が盗まれるという事件が起こる。そしてその犯人は…と話は展開するのだが、この労働者の二人が当時の労働者階級のあまりにもひどい生活状況の犠牲者であることは間違いない。必ずしも善人が救われるのではなく、富める者のみが栄える当時の社会に対する作者の鋭い批判の眼差しが読み取れる。
先の「実用」偏重主義やいわゆる「二つの国民」問題(富める者と貧しき者の格差)のほかにも作られる「紳士」(この作品では、紳士らしさを気取らないことで反対に紳士らしさを強調するという逆説的な問題)の話などもあり、読みどころは満載。雑誌連載を経た作品であるために、いわゆる「お涙頂戴」の雰囲気は強く、登場人物もやや平板な感じがするものの、それでも読ませる筆力はさすが、という感じ。ディケンズってやっぱり面白いと思う。