【小説】日本人が大好きな中編小説

6月に行ったフェリスのフレンドリー・グループの集まりでは、予定通りにジョン・ゴールズワージーの『林檎の木』を読んだ。参加したのは、院生2名と学部生2名。面白かったのは、両者の読後の感想が大きく違っていたところ。学部生は素直に好意的な感想を抱いていたのに対し、院生は少し斜に構えた感じ。勉強したことで小説の読み方に幅が出てきたこともあるのだろうが、反対に文学研究に毒されてしまっているとも言えるのだろう(良くも悪くも)。私も圧倒的に後者なので、学部生の純な反応が微笑ましかった。

りんごの木・人生の小春日和 (岩波文庫)

りんごの木・人生の小春日和 (岩波文庫)

さて、この中編は、ある意味で、日本でもっとも愛されてきた作品ではないかと思っている。なぜならば、文学史的にゴールズワージーといえば、やはり長大で重厚な大河小説『フォーサイト家の人々』が代表作とされている。読み比べるとわかるが、作品のスケールや描かれる人間関係の複雑さやがまったく違っている。ヴァージニア・ウルフの批判もわからないでもないが、個人的には、こういうタイプの小説は大好きである。
ただ、ゴールズワージーも、かつては大いに読まれながらも、今ではほとんど忘れられることの多い小説家になってしまっている。最近、日本では、一般読者はもちろん、研究者に読まれることもほとんどない。翻訳についても、多くが1920年代から30年代にかけて出版されており、現在は入手不可能なものがほとんどである。1932年にノーベル文学賞を受賞した作家であることを考えると寂しい限りである。
ところが、『林檎の木』だけは例外なのである。アマゾンで翻訳を検索してみると、現在でも実にたくさんの版が入手できることに驚かされる。井上義正訳(弘文堂書房)、増谷外世嗣訳と渡辺万里訳(いずれも新潮文庫)、河野一郎訳(岩波文庫)、三浦新市(角川文庫)、守屋 陽一(旺文社文庫集英社文庫)、矢崎節夫訳(ポプラ社文庫)などがある。タイトルも、『林檎の木』『リンゴの木』『りんごの木』『りんごの木の下で』と数種類あり、漢字の使い方からタイトルの日本語を考えるには格好の材料になりそうだ。現在でも、渡辺訳、河野訳、三浦訳は新刊ですぐに入手することができる。
そして面白いのは、反対に、原書では"The Apple Tree"のテキストは入手しにくいのである。ペンギン版にもオックスフォード・ワールズ・クラッシックス版にも入っていない。逆に、"The Forsyte Saga"の全3巻や"A Modern Comedy"はどはペンギン版やオックスフォード版で容易に手に入る。ゴールズワージーに対する、日本と英米との受け止め方の違いを伺うことのできる興味深い事実ではないだろうか。
なぜ、日本では、ここまで『林檎の木』は好まれるのか。ひとつには、昔から、この作品が大学などでテキストに使われてきたことがあるのであろう。地方訛りの英語も頻繁に出てくるために、決して読み易い英語ではない。ただ、その他の部分の英語が模範的に読めるのと、長さも適当なものであることも大きいのだろうが、実は物語パターンが当時の学生たちに好まれるものであったことが大きいのではないかと考えている。つまり、オックスフォード大学出のエリート青年が、旅行しているときにたまたま知り合った純朴そうな田舎娘に恋をして、そして二人は結ばれる。しかし、結婚を約束しながらも、境遇の違いからその娘を捨て去った青年と、それを待ち続ける少女とその不幸…。まだ日本でも大学生が限られたエリート層のものであった頃、そのほとんどが男子であれば、こういうパーンの物語に対して、彼らが憧憬を抱きながら読んだであろうことは想像できる。教える教師(元エリート学生)の側にも、そういう憧れがあったのであろう。ただ、そうであれば、現在も好まれているというのは不思議だが、やはり純愛の物語として読まれているのであろう。
もちろん、これを純愛の物語とだけ読むのではつまらない。特に、現在の感覚すれば、主人公の男性の一方的な思い入れとその自己中心性を見逃すことはできないであろう。男の自分勝手さばかりが鼻につくようになる。こうして、「若さゆえの純愛の物語」は「ナルシスティックな男の自分勝手な幻想を純粋な少女に押し付けた悲劇の物語」へと変わっていく。しかし、ここだけではまだまだ面白くないので、私はさらに屈折した見方でこの作品を読みたい。
この作品の隠しテーマのひとつは「田舎の若い女性が都会生活に対して抱く憧れと挫折の物語」ではないか、という読み方である。恋愛というのは双方向性がなければ成立しないのは当たり前で、そうでなければ二人の関係は深まることはないし、男性の側の犯罪的行為になってしまう。この二人の場合も、仕掛けたのは男性であるが、それを受け入れた女性の側にも能動的な意思があったのではないか。いや、むしろ女性から積極的にそのように働き掛けたのではないか、というのが私の読みである。閉塞的な田舎の共同体にうんざりした女性が、何とかそこを脱出したいという願望を抱くモティーフのは、イギリスの小説では頻繁に用いられる。もともとウェールズから親戚を頼って来ていたこのヒロインが普段から周囲に違和感を感じており、しかも身近には粗野な若者しかいない。そこへ都会からエリート青年がやって来て、自分に興味を持つ。若い女性が自力だけで移動することができない時代であれば、「ここ」を脱出するために、この機会を利用しない手はないだろう。そして、最後の悲劇は、男性に棄てられたゆえではなく、「ここ」を脱出することができなかったことへの絶望感からではないか。つまり、これはヒロインの野心と絶望の物語であり、また男性に頼らざるを得なかった当時の女性の悲劇的な境遇をめぐる物語なのである。このテーマをめぐっては、他の作品と関連させながら、夏休みに論文を書いてみようと思っている。
そうこう考えていると、小説を読み、そして考えることは面白いなあ、とは思いませんか?