【小説】ヴィクトリア朝の孤児の物語

最近、ある学生さんから、「今、先生の中ではヴィクトリア朝がブームなんですか」と言われました。確かに、授業のテーマは19世紀の小説や社会背景のことばかりだし、春の英文学会でニューマン、秋のフェリスのシンポジウムではサミュエル・バトラーとエドワード・ブルワー=リットンと、頭の中はヴィクトリア朝のことばかりを考えていることは間違いありません。ただ、その方向に意識が向かうようになったのは、授業で使おうと思って、昨秋にこの作品を読み直したことがきっかけだろうと思います。

Oliver Twist (Penguin Classics)

Oliver Twist (Penguin Classics)

もともと、ディケンズは嫌いではなかったのですが、すべての問題を感傷主義的に解決することを読者に強要するようなところがあって、どうもお腹いっぱいになる感じが嫌だったのであまり授業で取り上げようとも思いませんでした。しかしながら、そう斜に構えて読んだとしても、例えば『大いなる遺産』の結末を読んだときに、思わず涙腺はユルユルになってしまいます。「さすがディケンズ!」といったところです。でもお腹いっぱいな感じになってしまうんですよね。
ところが、昨秋に『オリヴァー・トゥイスト』を読み直したときには、これが面白い、面白い。ひとつは、日本英文学会のシンポジウムの準備のためにヴィクトリア朝の社会(特に宗教関係)についての本をまとめて読み、時代に対する理解が少しは深まったことがあるのだろうと思います。この作品の場合、「善なるものは永遠に変わらない」というロマン主義的なイノセンス観が強烈にあるのは「どうかな」と思わないでもありません。というのは、反対に、「悪なるものも永遠に変わらない」ということになり、どうしても人物描写が平坦になってしまうからです。ただ、それを差し引いても、この作品には、「今だからこそ読む」価値があるのではないかと痛感しました。
この時代、功利主義ベンサムの「最大多数の最大幸福」)とレッセ・フェール(自由放任主義)とが幅を利かせ、いわゆる世間的な「勝ち組」と「負け組」がはっきりと出てくることになりました。同時に、18世紀までのイギリスの共同体を支えてきた階級に基づく社会システムも大きく変貌します。地主である貴族・ジェントリー階級中心から工場主や大商人など中産階級中心の社会へと変わります。また、科学の発達などが人々にキリスト教への懐疑を抱かせるようにもなってきます。そのため、従来、機能していた様々な考え方、例えば、ノブレス・オブリージュ(社会的に身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ責任と義務があるという道徳観)やチャリティ(慈善)についての考えも変わっていきます。
平たく言うと、「自分の領地の人びとを幸福にする義務は自分にある、だから貧しい人たちには援助の手を」から、「貧しいのは自己責任、自分で努力しないのに、何をしてやれると言うんだろう」といった感じでしょうか。富が一か所に集中し、公平な分配が行われないという社会構造そのものに問題があるのに、それを棚上げし、いわゆる「自己責任」ですべての問題を解決しよう(というか、見て見ないふりをしよう)とするようになったのです。
さて、そのような時代風潮は現代の日本と似ていると思いませんか? 経済的格差が大きくなり、国民の幸福に責任のあるはずの総理大臣(横須賀選出の元首相ですね)が平然と「自己責任」という言葉を口にして、しかもそれが問題視されないという社会風潮。そこへもって、「実用」「実践的」「役に立つ」なものばかりが重視され、「効率性の悪いもの」はすべて切られてしまう。まさに今の日本ですよね。
その中で生きている人々には自分の時代についてはよく見えないし、なかなか客観的な判断はできないもの。そんなとき、「炭鉱のカナリア」(炭鉱において発生する窒息ガスや毒ガスを早期に発見するためにカナリアが警報として使用されたことから、「人々が気づかない社会的危機を前もって警告する存在」という意味で使われる)としての作家たちの声に耳を傾ける必要があるのです。それは決して同時代の作家である必要はないでしょう。ヴィクトリア朝の「炭鉱のカナリア」の声は、時代背景が似ている現代においても十分に有効であるどころか、むしろ積極的に耳を傾けるべきではないか、そんなことを考えます。そこにこそ、文学を研究することの意味があるのではないでしょうか。
ただ、ディケンズの場合、そんな小難しいことを考えなくとも、何と言っても、読んでいて面白いのです。小説を読む楽しさは、「どうなるんだろう?」と思いながら、時間が経つのも忘れて読みふけってしまうところでしょう。まさにディケンズはその代表格なのです。言葉を使って物語ることの面白さがどの作品も満載です。現代の多くの作家たち(意外なことに、ドストエフスキーディケンズ大好き)が彼の作品を好み、敬意を表するのもよく理解できます。
翻訳で読むのなら、ディケンズはやっぱり小池滋訳に限ります。
オリヴァー・トゥイスト〈上〉 (ちくま文庫)

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ちくま文庫から再刊されていますので、未読の人はこちらでどうぞ。あっという間に、19世紀のロンドンの世界へ引き込まれ、オリヴァーくんの行く末にハラハラドキドキすること間違いなしです。
本を読むのはちょっと…という人は、ポランスキー監督の次の映画をまず観てみるのもよいかもしれません、くだらないハリウッド映画を観る時間があったら、ぜひぜひ、こちらをどうぞ。面白いですよ。
オリバー・ツイスト [DVD]

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