【歴史】『オリヴァー・トウィスト』のフェイギンを理解するために

チャールズ・ディケンズの『オリヴァー・トウィスト』という作品の基本構造が「対照」であることは、ほんの少し注意深く作品を読んでいるとすぐにわかる。簡単にいえば「善と悪」が対照されていて、大枠では「〈善〉の世界と〈悪〉の世界」の対比になっていて、人物で見ると、ブラウンローさんとフェイギン、あるいはメアリーとナンシーといったように、善/悪の世界が同じ人物構成になっていることがわかる。つまり、ブラウンローさんとメアリーが善なる世界の保護者であり、フェイギンとナンシーが悪の世界の保護者といったところか。ただ、作者の意図はともかく、〈善〉の世界の住人たちでなく〈悪〉の世界の連中の方が興味深い存在であることは面白い。私の読後感として印象に残っているのは、主人公のオリヴァーでもなく、ブラウンローさんやメアリーなどの保護者たちでなく、やっぱりフェイギン、メアリー、サイクス、アートフル・ドジャーであり、モンクスでさえも興味深い人物だと思っている。でも、圧倒的に気になるのはフェイギン。
ディケンズの描くフェイギンが、当時のイギリス人たちが抱いていたユダヤ人に対する嫌悪感を集約したようなものであることはしばしば指摘される。例えば、その外見、窃盗団、盗品商売など。そして、そのことをユダヤ人の友人に指摘されたディケンズが「自分はそうは考えていない」といった趣旨のことを書き残していることは有名である。このエピソードを取り上げてディケンズの人種偏見について批判的に論じることもできるであろうが、ここではそういう個別のことについて話したいのではない。というのも、イギリス文学史を俯瞰的に眺めた場合、クリストファー・マーロウの『マルタ島ユダヤ人』やウィリアム・シェイクスピアの『ヴェニスの商人』をはじめ、同じような描かれた方をしてきたからである。問題はディケンズにあるのではなく、平均的な感覚のイギリス人全般にあるものと考えられるからだ。そのことがわかると、イギリスの「ユダヤ人」についての正確な理解がなければ、これらの作品を正確に読むことはできないのではないか、と強く危惧することになる。
イギリス文学におけるユダヤ人の問題を扱ったすぐれた研究書は、例えば、度合好一著『ユダヤ人と大英帝国』や『ヨーロッパの覇権とユダヤ人』、あるいは、英米の文学におけるユダヤ人像については、河野徹著『英米文学のなかのユダヤ人』などがある。イギリスとユダヤ人の問題について考える際には必読であろうが、やや専門的で難しいと感じる場合には、下記の佐藤唯行著『英国ユダヤ人』が入門的でわかりやすいであろう。

英国ユダヤ人 (講談社選書メチエ)

英国ユダヤ人 (講談社選書メチエ)

長いイギリスの歴史においてユダヤ人が入国した経緯や、1290年のユダヤ人追放、17世紀のオリヴァー・クロムウェルの時代に再入国が許されるまでの隠れユダヤ人の時代、そして、時代とともに社会に溶け込んでいくものの、根強く残る差別意識などについて平明な言葉でもって説明されてる。在英ユダヤ人の歴史について知りたいときには、その基本的な史実を理解することができるので重宝する一冊ではないかと思う。その後、先の専門的な本に進むとよいであろう。
一読して感じるのは、よく言われることであるが、いかに彼らがそれぞれの時代に翻弄されて続けてきたのか、ということ。現在のイスラエル問題についてのコメントは避けるが、客観的に見れば、大変な歴史を持っていることがわかってくる。ユダヤ人たちは、みんな好きで「フェイギン」になるのではなく、みんな「フェイギン」にならざるを得ないのだ。
ディケンズの作品と併読するとよいのが、ヘンリー・メイヒューのロンドンの貧民たちの報告書。例えば、翻訳もある『ロンドン路地裏の生活史(上・下)』には、ユダヤ人の盗品売買についてイラスト付きで説明されている。『オリヴァー・トウィスト』の原作では、フェイギンのところを抜け出したオリヴァーの居所がわかってしまうのは、彼の来ていたボロ着を買い取った古着屋のユダヤ人の報告によるものであることも、メイヒューの記述を読めば事情がよくわかる。
ロンドン路地裏の生活誌―ヴィクトリア時代〈上〉

ロンドン路地裏の生活誌―ヴィクトリア時代〈上〉

文学と歴史学の関係はしばしば議論されるところではあるが、時代・社会・文化の異なる作品を読む場合、最低限の知識を持つことは必要であろう。そうすれば、フェイギンを単なる悪党として切り捨てることはできなくなるはずだ。そうすれば、他にもナンシーやドジャーの言葉を正確に理解することができるだろうし、あのモンクスやサイクスに対してさえ同情的になれるのかもしれない。作品の奥行きの深さが実感できる瞬間である。