【小説】「大学」で小説の書き方を学ぶとは…

まみつんさん、またまたコメントをありがとうございます。その中で、鋭いな、と思ったのが、「文章が端正という印象」という部分です。実は、私も同じようなことを感じていて、特にイシグロの小説を読むと、うまく言えないのですが、英語が不自然にきちんとしているような、どこか妙な感じがしてくる個所が時どき出てきます。なぜだろう?と考えてみると、「創作科」のことに思い至りました。
個人的な感じですが、小説の執筆ツールが変わると、文体も変わるだろうと思っています。きちんと検証したことはないのですが、18世紀からすでに簡単なものが作られ始めたタイプライターが実用化するのが20世紀の初め、すると、すべて手書きだった原稿がタイプ打ちに代わっていきます。そうなると、当然、文章を創り出すスピードが速くなります。やっぱり、文章そのものが変わっていきそうですよね。日本語の場合でも、ワープロの普及が同じような影響を与えたように思います。今では、作家の多くがワープロになっているので、いわゆる「直筆原稿」というものがなくなってしまっているとか。そんなふうに考えてくと、執筆の道具というのは、作品を考える上で大きな意味を持つことは十分にあり得そうです。
執筆ツールとともに、小説を大きく変えただろうと思われるが、大学や大学院に設置された「創作科」つまり「クリエイティブ・ライティング・コース」の存在。アメリカではアイオワ大学、イギリスではイースト・アングリア大学(以後、UEAと省略します)が有名です。前者には、ジョン・アーヴィングが、後者には、カズオ・イシグロイアン・マキューアンらが有名な卒業生としてよく名前が出てきます。UEAについては、特にマイナーなところに書いてる作家も含めれば、相当数の作家を輩出しています。興味のある人は、UEAの創作科のホームページにある卒業者リスト(http://www.uea.ac.uk/creativewriting/alumni)をチェックしてみてください。3名のブッカー賞受賞者たちの(イシグロ、マキューアン、アン・エンライト)作品が遠慮がちに掲載されています(もっときれいにスキャンできなかったのか?と笑ってしまいます)。
当初は、「大学で小説の書き方などが学べるのか?」という批判もあったようですが、今ではすっかり定着しているようで、UEAの場合、とても成功した例と考えることができると思います。創設当初から、マルコム・ブラッドベリデイヴィッド・ロッジなどの著名作家であり批評家でもあるスタッフを揃え、鳴り物入りでスタートしました。よい教師のもとにはよい学生が集まるのか、その後もUEAの創作科は順調に伸びてきたといえます。そうであっても、「大学で小説の書き方などが学べるのか?」という疑問は解消されるわけではないでしょう。
小説というのは、教えられて書けるようになるものではなく、むしろ書き手の感情や思想を自然に発散させたものと考えられてきましたし、今でもそんなイメージが強いと思います。反対に、どこか感情をコントロールされたような小説はつまらないものだ、とさえ考えることもできました。ところが、20世紀に入って人間に対するとらえ方が複雑になると、小説の書き方そのものについて意識的になり、その結果、作家個人の感情や思想をより効果的に伝えるための方法を模索する「実験小説」なるものが書かれるようになります。ただ、それが行き過ぎると、プロット(筋)の面白さを無視した技巧的な作品ばかりが書かれるようになり、その反動で、今度は物語の面白さで読ませるような作品が書かれ…と繰り返してきました。そいういう流れを考えると、「いかにすぐれた技法でもって作品を書くのか」ということに注目されるようになるのは当然のことのように思います。そして、ノウハウがあるのであれば、それを伝授して…となれば、「小説を書くこと」は立派な「技術」になっていきます。その「技術」を教えるのが創作科である、と。
詳しいことはわかりませんが、創作科で学ぶことのひとつが「文章の無駄をなくすこと」であると聞いたことがあります。冗長になりがちな語りをいかにコントロールしていくか。そのためには、無駄な部分を削り落すことが必要になり、そのやり方を徹底的に学んでいくことになるようです。イシグロの文章が「端正」だと感じるとしたら、おそらくは彼がそんな「創作科」で学んでいることと大きく関係しているように思われてきます。考えてみれば、マキューアンの文体もそんな感じがしてきます。チャールズ・ディケンズの小説に無駄な描写が多いことはよく指摘されていますが、読み比べてみると、確かにイシグロらの文章には「無駄」がないことがわかってきます。そこが、どこかコントロールされた、妙な不自然な感じを受けてしまう理由なのかもしれません。ただ、個人的には、ディケンズらの饒舌な「無駄」の多い世界の方が魅力的だと感じています。
アメリカでは創作科の弊害が指摘されたこともあります。1990年代に、身近な些細なことを切り詰めた文体で突き放したような感情移入のない文章で描くスタイルが流行り、「ミニマリズム」と呼ばれた作家たちが短編小説を中心に活躍しました。そんな作家たちのほとんどが、大学の創作科で学んでおり、中には卒業制作で書いた作品が認められてデビューすることもあったようです。ただ、当時から、その内向きな(時には独善的にさえ見える)姿勢が批判されていましたが、確かに、現在も読み続けられている「ミニマリズム」の作家は、レイモンド・カーヴァーを除いてはいないようにも思います。完全な一時的なブームだったのでしょうか。
ただ、マキューアンやイシグロが一時的なブームの作家には思えません(ただ、イシグロの『夜想曲集』にはミニマリストにつながるような臭いを感じますが…)。おそらく、少なくともしばらくは読み続けられるように思います。彼らの作品が消えずに残っているのはなぜか?、については、創作科との関連も含め、考えてみることができると思います。ここで、最初の問題に戻ります。果たして、大学で小説の書き方などが学べるのでしょうか?

夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)

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